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    『2005.11.26多摩丘陵フットパスまつり順路案内』


晩秋の小野路−多摩のふるさとを往く


 多摩丘陵フットパスまつりも今年で3年目になり、今までは春に行っておりましたが、今年は季節を晩秋に変えて「晩秋の小野路−多摩のふるさとを往く」を行わせて頂きます。
 今回のコースは、鎌倉街道沿いの別所をスタートして、新選組の歩いた布田道を通り、みどりのゆびが管理する宿緑地から・・妙桜寺・・鎌倉街道上ノ道跡・・関屋城跡の切通し・・小野路宿に出て、公会堂で小野路の町内会の協力によってゆっくりと地場のお食事をして頂きます。
 午後は、小野路の辻から清浄院跡・・ならばい入口・・小町井戸・・小野路城址・・台、そして万松寺谷戸に下って万松寺・・小野神社まで歩いて頂きます。
 このあたりは、昨年、放送されましたNHKの大河ドラマ「新選組」の近藤勇、土方歳三、沖田総司らの若者が剣術の修行に度々やって来た小野路宿の小島資料館や布田道、義経が歩いたと言われる鎌倉古道。そして、今年の10月にNHKの「趣味悠々」で紹介されました小野路の里山など、この大都会の一角にまだこんなに素晴らしい場所が残っている事を改めて感銘させてくれます。
  詳しい説明については、古街道研究家として有名な宮田太郎先生に説明して頂きますが、簡単にコースの概略を説明させて頂きます。

別所から布田道・鎌倉街道上ノ道を通って小野路宿へ

§小田急線鶴川駅の改札を出て左側の世田谷通り沿いの5番乗り場のバス停から多摩センター行きのバスに乗って頂き、鎌倉街道沿いの別所のバス停で降りて、バス停の手前の細い道を右に入り、すぐに右に曲がれば、のどかな別所の谷戸の布田道に入って行きます。

 布田道(町田市小野路町・真光寺町) 
 鎌倉街道早ノ道の一つと考えられますが、むしろ、江戸時代に新選組が通った様に、布田五宿(国領・上石原・下石原・上布田・下布田)とこれから行きます小野路宿を結ぶ街道ではないかと考えられており、ここを通り、新選組の天然理心流試衛館道場から、近藤、土方、沖田らがしばしば出稽古にやって来ており、文久2年(1862年)の夏の出稽古に来た沖田は、はしかにかかり、この布田道を門弟に馬に乗せられて布田宿まで帰ったそうです。

§道の左側には、稲を刈り取った跡の田圃とススキで荒れ放題になった田圃があり、左側には、手入れの行き届いた生垣の農家にカンナの大きな花が咲いております。農家に挟まれた坂道を新選組の近藤や土方、沖田になった気分で歩いて下さい。このあたりは、春にはセリやナズナ、スミレ、タンポポ、ホトケノザ、ヒメオドリコソウ、オオイヌフグリなどの小さな花が咲き、四季折々に色々な花を楽しませてくれます。やがて、道は三叉路になり、坂を上がり直進すると妙桜寺から恵泉女学園の方に行きますが、取り敢えず、左に曲がり小川にかかる小さな橋を渡って、今は休耕田となった田圃を見ながら、みどりのゆびが管理しております宿緑地に行きます。開会のセレモニーをちょっとさせて頂きます。 
 この宿緑地は町田市より委託されて管理している緑地と山、そして、その奥には竹林があり、緑地と山は毎月第2土曜日に、竹林は毎月第3土曜日に作業をしておりますので、是非参加して下さい。春には、大きな竹の子が沢山頭を出してくれます。もう一度、三叉路に戻って左折して坂を上って行きます。このあたりも笠松谷戸と言われ、里山の風情をそのまま残しており、左側は野菜畑で、色々な野菜が作られており、今はホウレンソウが収穫されております。右側には、大きなムクロジの木があって、道端に実が落ちております。道は再び二又になり、左の道を下って行きます。ここも昔は田圃だった所ですが、今は荒れ果ててしまっております。やがて、坂を上ると、前方の高台ににNTTドコモのアンテナが現れ、右側の傾斜地は農家の野菜畑、左側は恵泉女学園大学の生徒が作っている農園があります。突当りで左折して、もう一度右折して坂を上ると、妙桜寺の角に出ます。近くには多摩市の一本杉公園があります。広い道路に出る手前で左折して尾根道を上って行くと恵泉女学園の自然観察林があり、その中に鎌倉街道上ノ道と言われる古道跡が残っております。左側の展望が開けると、先ほど歩いた谷戸の畑が眼下に見えます。尾根道を右に左にと曲がって雑木林を進むと、このあたりは静寂に包まれ、木々が鬱蒼と茂り、小鳥の声が大きく響く、尾根道が続きますが、鎌倉街道上ノ道は西側の別の尾根に別れて行きます。やがて、雑木林の尾根道を下ると一本木谷戸が現れ、再び、宿緑地の布田道に出て来ます。右折して、布田道を上って行くと、左側に少年野球の練習グランドが現れ、その先にみどりのゆびの管理している竹林があります。大分、綺麗になりました。やがて、鎌倉風の切通しが現れ、ここが関屋城跡と言われる所に着きます。
 鎌倉街道上ノ道は、この切通しの上を通っていたそうです。切通しの先で視界が開けて、里山の風景が顔を覗かせ、小野路の宿が見えて来ます。布田道は、小野路宿に下って行きますが、今回は左手の切通しの崖の上に上り、今も昔の面影を残している関屋城の空濠跡と笹薮に隠れた鎌倉古道跡を歩く事にしましょう。

 鎌倉街道上ノ道(多摩市南野・町田市小野路町)
  鎌倉時代から室町時代に鎌倉へ向かう幹線路である鎌倉古道の一つであった鎌倉街道上ノ道は、高崎から、所沢・東村山・小平・府中を経て関戸で多摩川を渡って、小野路・町田を経て鎌倉に通じていたと言われ、今は、このあたり がその面影を一番残しておる所と言われております。
  元弘3年(1333年)5月17日、新田義貞は鎌倉幕府討伐の際に、本人の指揮する中央隊がここを通ったと言われ、草木の生い茂る古道には、今は、春にはヤマザクラが咲き、アカネスミレやタチツボスミレも草木の間から顔をのぞかせ、雑木林の中では野鳥の声が聞こえ、クヌギやムラサキシキブ、ガマズミなどの生い茂る道として残っております。又、竹薮の奥には二重の空濠跡もある事から山城である関屋城跡ではないかと思われます。又、上ノ道は、ここでは小野路宿には下らないで、今は雑木林となっている所を通って野津田に向かったと思われ、その痕跡が沢山残っております。 

§狭い尾根道ですので気をつけて歩いて下さい。しばらく雑木林の中を歩くとボーイスカウトのキャンプ場に突当り、そこを二度ばかり右に曲ると、古道の壁が削られて反対側に土塁が築かれており、下の窪地の右側の斜面には平らな三角形の土地が何段かあります。又、その先の竹薮の所が三昧場と言われる所で、大きな古木と石の祠があり、武士がここにお参りして戦いに向かったと思われます。
鎌倉街道上ノ道はここで二つに分かれ、この先の野津田で合流します。ここから坂道を下り、住宅の間を抜けると、小野路宿の旧街道に出ます。道が狭いですから車に気をつけて景色を楽しんで下さい。この旧街道も数年後には道路の拡張工事のため景観も変ると思われますので、良く記憶しておいて下さい。やがて、旧街道の一角にある公会堂に着きます。
 地元小野路町の町内会の方々が美味しいお昼をもてなして下さいます。

 小野路宿(町田市小野路町)
  小野路宿は、武蔵国府(府中)に位置する小野郷の道筋にあり、鎌倉時代には、鎌倉と武蔵国府(府中)を結ぶ鎌倉街道上ノ道、その後、江戸時代中期には相模の大山信仰が盛んになり、府中・小野路・厚木・伊勢原・大山を結ぶ大山道、江戸時代末期には、新選組が通っ布田道、徳川家康の遺骨を搬送した御尊柩御成道などが交差する場所で、要塞跡や切通しがあり、平安時代には小野氏の支配地だったところから「小野地」、のちに「小野路」と呼ばれる様になったそうです。小野路宿は幕末まで宿場町として栄えました。旅籠も6軒あったそうです。又、最近までは、このお昼を頂いている公会堂の隣に昔の名残りを残す古い建物の煙草屋さんがありましたが、無くなってしまいました。本当に残念ですね。

小野路宿から小町井戸・小野路城址へ

§美味しいお昼の後は、再び旧街道を右折して、小野路の辻に行きます。公会堂のそばには、新選組で有名な小島資料館がありますが、あいにく今日は休館日となっておりますので、紹介のみにさせて頂きますので、又の機会にいらして下さい。

 小島資料館(町田市小野路町)
  この地の中世以来の由緒ある名主であった小島家は、幕末以後の当地における活躍者として知られている鹿之助為政が幕末の新選組の活動に大きな役割を果たした人物で、近藤勇や土方歳三や沖田総司は剣術の出稽古に訪れ、儒教も学んでおります。資料館には、寛政年間の古地図や近藤勇、土方歳三の書簡などの新選組関係の資料や自由民権運動関係の資料が展示されております。
開館日は第1日曜日と第3日曜日です。

§やがて、小野路宿の辻に着きます。ここで、府中道、布田道は八王子道と合流します。八王子道は、小野路の宿から浅間神社を通り、多摩ニュータウンの南を通り、唐木田から別所・掘之内、野猿峠、鑓水を通り八王子に繋がっているそうです。横浜へ絹を運ぶのに使われた道とも言われております。
 左側の可愛い建物の野菜売り場の手前を左折して、小野路川を渡ると、右手には、今はありませんが、堂場入池(小野路池)があり、浅間神社や清浄院の人達が禊をしたそうです。又、左手の崖の下には、首を斬られたお地蔵さんがあり、高台には清浄院跡があります。

 清浄院跡(町田市小野路町)
  今はお寺はありませんが、小田原の北条氏が八王子城に拠点に持った時は氏輝が城主で、ここにご禁制と言い「何々をしてはならぬ」と言う書物を発行しており、内容は「この清浄院で曼陀羅法要を行うから何人もそれを妨げてはならない」と言う文書に残されております。その文書は小野路で5通のうち3通が見つかっております。

§曲がりくねって急な坂道を上って行くと、スダジイの森が現れます。樹齢500年の大木で、その中には旧家の先祖代々のお墓があります。やがて展望が開け後ろを振向けば、向こうに布田道が通る真光寺と黒川の境界の山が見え、下の畑には、春には、ピンクのモモや黄色いサンシュウの花が綺麗に咲いております。
 道は2分岐しますので、右に進むと浅間神社へ、直進すると、ならばいと小野路城址の分岐に着きます。直進して尾根道を下れば、都立小山田緑地に行きます。

 ならばい(町田市小野路町)
  小山田城と小野路城を結ぶ道で、武士達がこの道を通って往き来をしており、だらだらと歩いているので、見っとも無いと「ならべー」と号令を掛けて整列させたので、「ならばい」と呼ぶ様になったそうです。面白い話ですね。 
§左折して篠竹のトンネルをくぐって尾根道を上ると、図師小野路歴史環境保全地域として整備保全された山林が現れて来ます。
 やがて、かの中世の絶世の美人の小野小町が眼を洗ったと言う小町井戸があります。

 小町井戸(町田市小野路町)
    小町井戸は、平安の昔、病を罹った小野小町が、この山に千日こもり、この水で目を洗うと病が全快したと言う伝説があります。今は水量が少なくなりましたが、昔はすぐ下に小滝があったそうで、この水は万松寺谷戸を潤して、小野路川となって鶴見川にそそいでおります。

§小町井戸からちょっと戻って左折して、左の小高い丘に上ると、現在の町田市小山田の大泉寺の場所に小山田城を構えていた小山田有重の副城である小野路城址に着きます。高台にポツリと鳥居と祠がありまりますが、その周囲には大きな掘切もあって相当大きな城山だった様です。

 小野路城址(町田市小野路町)
  小野路城は、現在の小山田の大泉寺の場所に小山田城を構えていた秩父平氏の一族である小山田有重の副城で、その子の次郎重義が守護にあたり、築城は承安年間(1171〜1174年)と言われ、都内の古城址の中でも一番古いものの一つで、現在、残っている地形から本丸を含む二つの郭と、それを囲む土塁、空堀からなっていたと想像されると、記載されております。

小町井戸・小野路城址から小野神社へ

§小野路城址の参道の坂を下って右折して、しばらく綺麗に整備された雑木林の中を行くと、小野路町と図師町の境界尾根の台の乗越八幡跡に着きます。道路脇の土手の上には五輪塔と道祖神があり、この道が鎌倉時代からあった事を裏付けています。当時、このあたりは、幕府の有力御家人だった小山田氏の支配を受けており、この五輪塔に供養された人も小山田氏にゆかりのあった人でしょう。又、近くには、こうせん塚があります。

乗越八幡跡とこうせん塚(町田市小野路町)
  乗越八幡については記録がないそうですが、案内説明板によれば、「乗越」は峠の様な山道が尾根を越える地点に付けられ事が多く、「八幡」は戦いの神様だそうですから、小野路城に深い関係があったと思われます。
  右側の奥に「こうせん塚」があって、ここに関所があったとも言われており、椎の木の根元にある塚は「こうせん婆さん」と呼ばれていて、昔、麦ころがし(こうせん)にむせて死んだ老婆を祀ったと言われており、咳の病が治る様に茶碗や竹筒にお茶を入れて奉納したそうです。又、落城の折の「交戦場」とも言われておりますが、定かではありません。

§土手の上にある五輪塔や道祖神の手前を曲がると、左手に図師小野路歴史環境保全地域で町田歴環管理組合の組合長をされておられる田極さんのお屋敷があり、町田名木百選にも選ばれている大きな椎の木があります。組合長にちょっとお話を聞きましょう。

図師小野路歴史環境保全地域(町田市小野路町・図師町)
 この一帯は「東京都における自然の保護と回復に関する条例」によって「図師小野路歴史環境保全地域」に指定されており、地域内には貴重な野生動物が生息する豊かな里山の自然環境を保全するために、東京都と町田歴環管理組合が山林などを管理しており、五反田谷戸や神明谷戸では棚田も耕作しております。 
§もう一度、小野路城址の方に戻って、竹林の中の急な坂を下って、雑木林を抜けると昔の面影の残った万松寺谷戸が目の前に開けます。その一角に臨済宗建長寺派の万松寺があります。枯山水の庭がとても綺麗です。ご好意によって庭に入らせて頂きます。

万松寺(町田市小野路町)
  小野山万松寺と号され、臨済宗建長寺派の柴崎村(現在の立川市)の普済寺の末寺で、御朱印七石、開山は宗興で永徳2年(1382年)に亡くなり、寺僧の伝に等公は仙術を得し寄特の人であったそうです。
  境内の西の方に湧出する水は、かの旧跡なるをもって「仙水」と言われており、本堂は、本尊薬師木の立像(長さ1尺5寸ばかり)が祀られております。
  昭和20年5月25日に空襲により焼失しましたが、再建されました。又、土蔵には今も空襲の時の焼夷弾の痕が残っております。

§万松寺の正門を出て、左折して薄暗い旧道を進むと、6+1地蔵の六地蔵があります。左端の地蔵さんは後で何処からか迷い込んだでしょうね。旧道をもう少し行くと、小野神社に着きます。又、今回は行きませんが、近くには、小野路一里塚 があります。

小野神社(町田市小野路町)
 小野篁を祀った神社で、天禄年間(972年頃)に武蔵の国司として赴任した小野孝康が建てたもので、篁は平安時代初期の漢学者で、菅原の道真の先輩にあたる学問の神と言われております。この神社にあった梵鐘は、現在、逗子市沼間の海宝院にあり、応永10年(1403年)の冬に小野路郷の正ほうと言う僧が交通の安全を祈願して、十郎四郎なる者に鋳造させて寄贈したもので、文明年間の扇谷・山内両上杉氏の争いに際して山内上杉方の兵により陣鐘として持ち去られ、その後、海宝院に寄進させられたとの事です。

小野路一里塚(町田市小野路町) 
 このあたりは大山道と言われ、江戸中期の頃は平塚宿と府中宿を結ぶ脇街道で、大山詣で賑わった様です。道の脇に現在は復元された比較的新しい石塔が建っており、「おおやま小野路一里塚」と書いてあります。 
 江戸時代の初めの元和3年(1617年)に駿河の久能山に埋葬されていた徳川家康の遺骨を日光の東照宮に移す際にここを通った御尊櫃御成道と伝えられており、その時に街道の整備とともに造られたものだそうです。又、この近くの向坂では、家康の遺骨を載せた御尊櫃が小野路まで来た時に壊れてしまいそれを土地の鍛冶屋が修理をし、その功により助郷を免除された事が記録に残っているそうです。

§今日は一日、色々と有難う御座居ました。又、この小野路を忘れないで是非やって来て下さい。お待ちしております。

                         一日お疲れ様でした。 

寄り道すれば


薬師池公園(町田市野津田町) 
  この公園は、町田を代表する景勝地として「新東京百景」にも選ばれており、四季折々に花を楽しめる公園として有名で、常に多くの人が訪れて賑わっております。ここは野津田町の南端の谷戸にあり、池を中心に梅林や菖蒲田、萬葉草花苑、大賀蓮池等があり、池の西側の雑木林の斜面の奥に野津田薬師と呼ばれる福王院薬師堂があり、この寺院は奈良時代の天平年間(729年〜749年)に行基によって開基された町田市で最古のものだそうです。現存するお堂は明治16年(188 3年)に再建され、野津田の本山にある華厳院の一部だそうです。
 薬師堂は鬱蒼とした木立に囲まれて昼でも薄暗い程で、その空気は悠久の時の流れを感じそうです。 堂の正面には町田市の名木百選にも選ばれている銀杏の大木があります。
園内には国の重要文化財の野津田町の旧永井家と都の特定有形文化財の三輪町の旧荻野家が移築復元されております。池の北側には写真家・秋山正太郎の協力を得て町田フォトサロンもあり、秋山氏の展示の他に市民による写真展示も行われております。又、薬師池の由来は、別名福王溜井と呼ばれ、安土桃山時代の天正5年(1557年)に、北条氏照の印判状が、野津田の武藤半五郎(本村の河井家先祖)に下り、水田用水池として天正18年(1590年)まで開拓されました。その後、江戸時代の宝永4年(1707年)に、富士山の噴火により泥砂で埋まり、大塚村、小山村、高坂村などから人足が出て、3年間を費やして泥砂を浚いましたが、江戸時代の文化14年(1817年)に再び泥砂が埋まり、渇水状態となったため、普請願を提出し干ばつにあえぐ七町余歩(約7ha)の水田の水を得るため、溜井を掘り直して今日に至っております。広さは7,700uあり、沢山の錦鯉が放流してあります。

七国山・鎌倉井戸(町田市山崎町) 
  七国山は標高128m程の山で、その名の通り相模・甲斐・駿河・伊豆・上野・下野・常陸の7ヶ国が見渡せた事からそう呼ばれたそうです。山頂付近の切通しの道をちょっと西に行くと鎌倉井戸と呼ばれる古井戸跡があり、町田市の指定史跡になっており、一説によれば、新田義貞が鎌倉攻めの際に軍を進める途中にここに井戸を掘ってその水を軍馬に与えたと伝えられております。
 井戸の深さは4mで、表土の部分は崩れて、現在は木材で囲いが作られていますが、1.5m下のローム層部の円筒形の井戸が原形のまま保存されています。

石坂昌孝の墓(町田市野津田町) 
  石坂昌孝(1859年〜1907年)は、この地、野津田に生まれ、明治初年戸籍区戸長、区長などを経験し、初代の神奈川県会議長(その頃は町田は神奈川県でした)になり、早くから地域の教育運動を組織して、常に地域民権運動の先頭に立っており、町田をはじめ神奈川県下の自由民権運動の最高指導者の一人で、明治23年(1890年)の国会開設にあたっては衆議院議員となり、4期を勤めた後に群馬県知事に抜擢されました。石坂美那・公歴の父で、北村透谷の義父でもあります。村人によって建てられたお墓は、今はこの場所で寂びしく、初夏には約800株、100種の牡丹が咲き誇る町田ぼたん園となった旧屋敷跡を眺めております。

綾部原古戦場跡(町田市野津田町) 
  中世から鎌倉時代、室町時代、戦国時代と、特に新田義貞の元弘の乱(1333年)から徳川家康入府の250年間に、幾多の戦いがここで行われたと伝えられております。又、室町時代の応仁の乱(1467年〜1477年)では町田周辺が戦火となり、小山田城が陥落しました。この場所にも、かつては塚が至るところにありましたが、今は開墾されて不明ですが、四都塚などの地名が残っております。 

野津田公園(町田市野津田町・小野路町) 
  野津田町の北部から小野路町の一部にまたがり、多摩丘陵の緑の中に横たわる様な公園で、面積も40haと広く、西南部には陸上競技場やスポーツに最適な多目的広場があり、「野津田総合運動場」として利用されております。
 又、周辺には遊歩道や芝生の広場もあって休日には沢山の家族連で賑わっております。
 又、野津田公園の南側には、野津田の丘と上の原があって、古街道の集まる特にこの上の原に奈良時代から平安時代には古代東海道が、鎌倉時代には鎌倉街道上ノ道が通り、中継地として重要な役割を果たした場所でした。鎌倉街道上ノ道については、平成4年の発掘の際に12m巾の古道跡が見つかっており、今から500年前の室町・戦国時代には大きな軍事駐屯地であった事が想像出来ます。

自由民権資料館(町田市野津田町) 
  「自由民権運動」を柱に据えたテーマ館として、町田市を中心に、多摩・神奈川の民権運動関係史料を収集・保管し、整理・研究した成果で常設展示や企画展示を行っており、常設展示の「多摩の民権/町田の民権」の他に年2回の企画展を開いております。 
  開館時間は午前9時〜午後4時30分で月曜日が休館日です。 

一本杉公園(多摩市南野)
  この地は、多摩ニュータウンが開発される前は多摩丘陵の雑木林の尾根にあたり、元は町田市であったところですが、昭和48年に多摩市に編入され、多摩市の南部に位置する事と、小野路の野を取って南野と命名されたそうです。
  この公園は、道路に隔たれて南北に分離されており、北側には一本杉公園やテニスコート等の運動設備や木立も残っており、春には桜が見事で見物客で賑わっております。又、多摩市の天然記念物に指定されております幹の周囲3.2m、高さ15m、枝はり約10mのスダジイもあります。
  又、南側には、梅林や炭焼き小屋もあり、昔ながらの山里の風情を感じさせ、一角には、移築された古民家の旧有山家住宅(多摩市指定有形文化財)と旧加藤家住宅や池や芝生の広場があり、休日には子供連れで賑わっております。

○旧有山家住宅
 多摩市乞田の有山茂章氏により寄贈されたものを移築復元したもので、江戸時代、18世紀前半頃の建築と推定され、寄棟造りの農家で、古い構造が各所に見られます。

○旧加藤家住宅
 多摩市落合の加藤有一氏より寄贈されたものを移築復元したもので、18世紀後半頃の建築と推定され、入母屋造りの農家で、内部の見学だけでなく、小集会・茶道・華道等古民家の特色を生かした団体行動の場として開放されております。

20005.1126配布資料
NPO法人「みどりのゆび」
 事務局 杉原正巳


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