南大沢から多摩境へ、
縄文人がたどった交易の道・古代甲州道
[ 講師:古街道研究家宮田 太郎 ]
八ヶ岳・諏訪地方と繋がっていた祭祀場
3月29日(水) 天気:晴参加者:14名
前回の「古代甲州道」の続きは、いよいよ、たった一つの小さな峠を越えることで、相模野と武蔵野を簡単に結ぶことが出来た「小山内裏峠」を目指しました。それは北向きの傾斜面(多摩ニュータウン側)において、大栗川の支流・大田川や大栗川に沿って多摩川や武蔵野まで真っ直ぐ下れるという特性があるからこその交通路の拠点だからです。
今回の集合地である南大沢駅前を出てすぐに、遺跡調査の成果からわかった縄文集落群の分布図を、まず皆さんに見て頂きましたが、一様にびっくりされていたのが印象的でした。
南大沢駅前のバスターミナルや大型スーパー、商店ビル一帯は、わが国を代表するかつての縄文時代遺跡の濃密なるエリアでした。ところが、どこを探してもそのことを知る解説ボードや案内板が一つもないのはなぜなのでしょうか。
ーー済成長時代の大開発時には、遺跡の存在をとにかく消し去る風潮があったことは事実です。しかし、今やそれだけの遺跡群があった場所は、かえって何千年も大きな災害にあっていなかった、いわば壊れていない安全地帯であることを証明していることが認識される時代になったはずです。
それを知れば、ここに暮らす現代の人々の心にも安らぎをもたらし、また土地への愛着が育まれるはずです。しかしながら、未だにその「負の遺産的考え方」のトラウマに支配されているのかと思うと、悲しい気持ちになるのは私だけでしょうか。
膨大な遺物や調査データを、なぜもっと現代に活かすことができないのか、今と未来だけにしか生きていない現代人が住むエリアになってしまって良いものか…、ここには、開発時代の何かの圧力が残ることの意義は今や何もなく、むしろすでに幻と化しているのではないかーーと、いろいろ考えさせられます。
さて、駅の西方には「輪舞(りんぶ)歩道橋」という、いわば交差点の上に、四方の道のどこへでも簡単に降りられる円形の歩道橋があり、この上から目の前の丘の瀟洒な南大沢住宅地の建物群を眺め、また「古代東海道の推定位置はあのあたりです!」と、一段低いところを走る線路から手前の尾根へ続く推定路を指さしました。
尾根緑道は戦時中は戦車の試験走行をしたところ
古代には「武相国境線」だったそうです
さらに西側に進むと「赤石公園」という場所があり、かつてこの一帯が山林地帯だった百年前までは、この「古代甲州道」の峠越え直前の位置に道標代わりの赤い石(多摩川のチャート石か?)が置かれていたとも言われています。
今では公園の片隅に、床面にタイル材で作られた付近の地図と、失われた赤い石の代わりに置かれた別の石が立てられています。公園を造った当時の設計士や地元の人たちが、たぶん何度も相談して決定したものだと想像するだけで、何だか温かな気持ちが伝わって来る場所となっているのです。
そして“関東山”と呼ばれ命名由来不詳の最高地点の森(ここが内裏峠の一角)があり、そこを越えると尾根緑道に出ますが、“戦車道路”とも言われたその由来を示した解説ボードがあり、そこで本当に戦時中に戦車はここを走行したのかについて、様々な研究者の見解を自分なりの言葉でお伝えしました。
さらに尾根緑道を進むと、トンネルとなった線路上あたりの山の中に奇跡的に残った「古代甲州道の推定遺構」があります。ーーといってもこの辺りが整備されることになった際に、公団側の担当者と私がこの道路遺構の保存について相談しました。工事はすでに設計段階を終えていましたが、かろうじて、遊歩道として舗装はされつつも最後の峠を上る傾斜面の地形や道路跡が、そのままの位置に残されたのは幸いなことでした。
これぞ縄文人も奈良時代人も越えた峠に残る「古代甲州道」
その先、さらに皆さんと進んで、高台から相模野や丹沢など遠くを眺め、また、多摩境駅の駅舎の位置へ下って境川を渡り、相模原市域へと続いていた「片所古道(かたそこどう)」の位置も確認しました。他にも秩父の武将・畠山重忠の別荘があった伝説の丘、今はなくなった小山城跡のこと、古代の窯跡群や平安時代の木器製造場があった場所などの説明もしました。
遠くに連なって見える雄大な丹沢山系の山々の中でも、ひときわ端の方(西端)にあって、古代東海道を行く人々や大山参詣の人々の目印となった「相模大山」のこと、縄文人たちが冬至の日没を観測するための目安になったと考えられている丹沢最高峰の「蛭(ひる)ヶ岳」の本来の意味などにも触れました。
正に縄文人たちが、また古代の人々がこの峠越えのたびに、また日々の暮らしの中でとても大切にしてきただろう大いなるパノラマ景観が、今もそこにあるのです。
フットパスの最後は、八王子から横浜に続いた「絹の道」の「浜見場跡」と最古の古道が眠る谷を上から眺めたり、道志渓谷の上質の鮎で将軍御用達になった「鼻曲がり鮎」を鮎担ぎ人が江戸城へ運んだ「鮎街道」の跡、古代の窯跡が眠る神秘的な「内裏公園」の森と池、そして縄文時代のストーンサークルといわれる復元遺跡「田端環状積石遺構」と続いて回りました。その遺跡のすぐ前の道路付近では、北海道の函館近くから出土した土偶に似た特徴を持つものが出土していることから、かつて縄文時代には北海道までも交流の道が存在した可能性もお話して、この日は終了しました。皆さんもこの峠道に溢れる歴史の豊富さにきっと感動してくださったのではないかと思います。
写真右手に未登録の塚?が見えますか?(鮎街道にて)
多摩境のストーンサークル(田端環状積石遺構)からは、
冬至の日に丹沢の蛭ヶ岳に夕陽が沈む様子が観測できる
(文と写真;宮田 太郎)
小山田内裏峠は八ヶ岳・諏訪地方と多摩地方を結ぶ交易の道だった
多摩丘陵12古街道フットパスの第3回目、今回は京王相模線「南大沢」駅から「多摩境」駅周辺の「縄文人がたどった交易の道・古代甲州街道」の道を探索しました。
八ヶ岳・諏訪地方から多摩丘陵を越えるには小山内裏峠が一番容易で、八ヶ岳や諏訪地方から黒曜石、ヒスイ、さらに縄文土器(勝坂式)などが伝えられ、大栗川に沿って東日本最大級の多摩ニュータウン遺跡群が見つかっています。
小山内裏峠は「小山内裏公園」として整備されていますが、立ち入り禁止のサンクチュアリが大半を占めています。宮田先生によると「自然保護と同時に未発掘の場所の保護(遺跡、古道)のため」でもありますと。
ここの戦車道(尾根緑道)は相模陸軍造兵廠で製造された戦車の走行テスト用として作られ、戦後しばらくの間、防衛庁が同様な目的でここを使用していました。
午後は田端環状遺跡を訪ねました。縄文中期から晩期(約5000~2800年前)のいわゆるストーンサークルです。冬至には丹沢の蛭ケ岳山頂に陽が沈むなど宗教的な場であったと。また、この近くには、国内最大級の「南多摩窯業跡群」が見つかっていて、須恵器窯跡、粘土採掘跡や集落跡などの遺跡が発掘され、古代の手工業センター!?ですねと。
次に、「浜見場」と呼ばれる高台から横浜方面を眺められ、元々の絹の道が通っていた道ですと、現在の絹の道は多摩ニュータウンの開発等で曲げられた道だそうです。
小山内裏公園の「大田切池」、調節池の造成によって立ち枯れとなった杉の林立、北海道の有名観光地「青い池」と似ていますね。
桜の満開の季節、天気も良く、気持のよい歴史フットパス、宮田先生の発見した古道など、いつもながらの詳細な資料と楽しいお話でした。
(文と写真:田邊 博仁)
尾根緑道の満開の桜とご参加のみなさま