[ 講師:古街道研究家宮田 太郎 ]
中世武士団・横山党と鎌倉一族の伝説地・古道を探索する
5月30日(火) 天気:晴参加者:12名
今回は八王子市域でも高尾に近い「狭間(はざま)町」や「館(たて)町」の境を西から東に流れて南浅川に注ぐ「湯殿川(ゆどのがわ)」流域の歴史ロマンをテーマにしました。
我がNPOみどりのゆびとはフットパス仲間として馴染みがある山形県の長井市ですが、近くに月山・羽黒山・湯殿山の出羽三山信仰の聖地があることは皆さんも知っている、あるいは聞いたことがあるのではないかと思います。その長井市も、八王子の横山党という鎌倉時代初期の武士団の跡地を継いだ長井氏が関わっていることは、あまり知られていないのかもしれません。
今回はこの湯殿川に沿う丘陵を東の片倉城址(ここも長井氏の居城)方向に進み、途中の和田というバス停(片倉駅行き)まで、山林や畑が残る丘陵伝いに丘を含む約7kmをコースとして歩きました。
八王子、湯殿川の上流「上館親水公園」にて
当日はJR「高尾」駅前に10時に集合し、駅北側の廿里砦跡(とどりとりであと:現在の森林総合研究所一帯)を眼前に見ながら、駅南側の古刹「大光寺(高尾山薬王院の本坊建物を移した本堂がある)」から初沢城址の下の高乗寺入口に進みました。この「高乗」という寺の名前も、横山党の滅亡後に大江広元という鎌倉幕府の重臣の一族である長井氏が遺領に入り、室町時代初期の子孫が片倉城主となったそうで、その人・長井(永井)高乗が創建したことからこの寺名がついたようです。
その先には、前・天皇陛下ご夫妻も来られた
「みころも霊堂」と、隣接する「高尾天神社」に日本一の大きさの菅原道真像があります。この道真像は、急な階段を上らなくては近づけないので、ほとんどの方が階段下から仰ぎ見ましたが、作者は意外にも、江戸日本橋の銅製の麒麟像や獅子像、多摩市の聖蹟記念館の明治天皇騎馬像を製作した渡辺長男(おさお)氏で、大正天皇の御陵が決定した際に建立が計画されたものの関東大震災で一旦頓挫し、放置された時期を経て昭和11年頃に私費や寄付金を費やして完成したものだそうです。
その先は、狭間の台地上にある大型スーパーでの昼食に向かいましたが、途中で車の往来の多い町田街道を越えました。この街道は、ずっと先の町田の商店街に続きますが、その原型である旧町田街道は、実は鎌倉時代の「鎌倉街道山ノ道」であり、秩父地方と原町田を結ぶ中世の大街道でした。その旧道は今は静かな住宅街の道になっています。尾根上にあるその旧道に出た時、ご参加の皆さんに向かって、「みなさん、ここは高尾駅にも近い場所ですが、この道が町田の駅前の小田急デパート脇の第一踏切に続いていますので、どうでしょう、今日はこの道の探索に変更して町田駅前まで行きましょうか~!」と話すと、一斉に「え~!」とか「遠すぎ~」とか笑いながらもはるか先の町田を見ている目に変わっていたのが印象的でした。
川沿いには、横山党が平安時代末期に源氏の東北遠征に加わった際に奥州から持ち帰ったと伝わる、神秘的で美しい大日如来像が古いお寺の堂内にあります。また、鎌倉一族の権五郎景正を祀る御霊神社があり、戦国時代の小田原北条氏照の家臣で八王子城で討ち死にした近藤出羽守の館城(浄泉寺城)もあります。
親水公園から湯殿川の御霊神社に向かいます
鎌倉権五郎を祀る御霊神社,アオバズクが生息していてビックリ
そもそも湯殿川の名前をここに移した?その本当の歴史はどのようなものだったのか…という謎解きのような思いが私の中にずっとあり、皆さんと歩きながら、そんな話もしながら、楽しく景色の良い丘の上の森や畑の道を探索しました。
その湯殿川由来の謎を解くヒントは、およそ四つーー①源氏に従って出羽国まで遠征した鎌倉権五郎が出羽三山に立ち寄り戦勝を祈願。その親戚にあたる有名な梶原景時(母は横山党で元八王子に故郷がある)が、後に当地の川に名前を移した。②横山党が奥州での戦乱に出陣した際に、出羽三山の神域から大日如来を持ち帰った伝説があるが、それこそが真実である。③鎌倉~室町時代に活躍した大江氏族の長井氏が、出羽国の置賜郡に領地を持ったので、当地方の一族にも伝わった。④戦国時代の近藤出羽守が出羽国との縁を持ったことで、この名前が当地方の川にも付いたーーなどが考えられるのでは…とお話ししました。
もちろんこれらの内のいずれが正しいのかは不明ですが、古い中世武士の時代の話なので、参加の皆さんにはちょっと難しい話になったかもと思いつつでもありました。
また一帯が古代の馬牧があった?=平安時代の延喜9年(909年)の朝廷の直轄牧の記録に見える「立野牧」と「館(たて)町」の地名の関係性のロマンもあり、今にも馬が飛び出してきそうな丘の上の小径を歩けたことは、貴重な体験だったかとも思います。
古代の馬牧(立野牧?)があったかもしれない丘はとてものどかな場所
また高台の南側で建設中の圏央道バイパスを眺めた際には、遠く御殿峠や野猿峠まで見える雄大な景色に、皆さん一様に目を細めつつ展望を楽しんでおられたようでした。
森を抜けた先の高台から見えたのは
「圏央道バイパスの工事現場」でした
何とも贅沢なフットパスでした
今回歩いたのは、高尾山の麓に源を発し、八王子市の西部を東に流れて多摩川につながる湯殿川(ゆどのがわ)という小河川の流域です。高い段丘崖に画された谷間のようなところですが、頂いたマップによると古くから多くの街道が交錯する交通の要地であったようです。現在もJRや京王線に近くて都市化が著しいですが、周囲の山々や丘陵地はほとんどが鎌倉武士団や戦国北条氏などにより城塞化された歴史があります。
前日は空模様を心配しましたが、当日は雨上がりの爽やかな空気の下での景観の中を歩くことができました。宮田先生の該博な知識に基づく解説を聞いていると、ちょっとした地形の変化や細い道も歴史的な意味を持ち、想像が一気に鎌倉時代や戦国時代の過去に飛びます。何とも贅沢なフットパスでした。
今回のテーマである横山党は平安末期から鎌倉時代前期にかけて八王子市・町田市を中心に大きな勢力を誇った武士団で、この付近はその本拠があった場所です。大河ドラマの「鎌倉殿の13人」には含まれませんが、和田義盛の乱に加担して北条義時に滅ぼされたため歴史から姿を消しました。では横山党がこの地に残したものはあるのでしょうか?そもそも「湯殿川」という奇妙な名称は何に由来するのでしょう?また、流域にある「御霊(ごれい)神社」の祭神・鎌倉権五郎景正は東北が舞台であった前九年の役(平安末期)のころの武士ですが、なぜここに伝承が残っているのでしょうか?
こういった様々な謎に対して宮田先生は大胆な説明を試みます。鍵となるのは、出羽三山湯殿山(ゆどのさん)の大日如来信仰との関係です。前九年の役に従軍した横山党や鎌倉氏一族が信仰を持ち帰り、この地に根付かせたのではないか…。
最後に訪れた「龍見寺大日堂」の大日如来像(東京都重要文化財)は、直接拝観することはできませんでしたが、端正なお顔は写真からでも何かを語りかけてくるようでした。帰りのバス停の近くにも大日如来と思われる智拳印(ちけんいん)を結んだ古い石仏があり、印象的でした。
(文と写真:森 正隆)
湯殿川親水公園 龍見寺大日堂