多摩丘陵フットパス専門家講座 岡上のバラガーデンから玉川学園、 町田へ
2021.05.30
多摩丘陵フットパス専門家講座 岡上のバラガーデンから玉川学園、 町田へ
[講師:高見澤 邦郎 ]
急階段や尾根道がつなぐ豊かな日常
5月30日(日) 天気:晴 (一時雨) 参加者:11名 フットパスガイドマップの3と4をつなげて、
尾根と谷戸を、緑と住宅をという企画です(電車なら10分ちょっとですが)。朝10時、小田急線鶴川駅北口改札に集合し、町田寄りの踏切を渡って直進、鶴見川を渡って最初に立ち寄ったのが「さんかくガーデン」。道路と水路に挟まれた小さな土地を四季折々の草花でよみがえらせた住民管理の広場です。
「さんかくガーデン」は花一杯
先を急ぐので尾根に上がらずそのまま和光大学 方向へ。左に岡上の急坂の住宅地、右にわずかに 残った田んぼが見える道を10分ほど歩くと、建築 工房があって「季の庭」の表示が。この庭は上の 斜面にあった2軒の住宅が取り壊された跡地を工 房の夫妻が購入して開園したとのこと。この季節 はバラが美しいガーデンですが、残念ながらコロ ナ禍で閉鎖中。手前の急坂を登って上から眺めて みました。庭の向こうに大学が見えます。
手前が「季の庭」
さらに急な階段を上がって尾根道に到達。左側 の谷戸は川崎市の緑地保全地区に指定された樹林 帯で、右側には結構昔に建ったとおぼしい住宅が 続きます。やがて道は細くなり、都県境の標識が 地表に打たれているあたりからは左右とも玉川大 学の構内で、農学部の牛舎もありました。
牛舎が残っていました(浅黄)
さて道はそのまま玉川大学の構内に入ります。 手入れのいいキャンパスに並ぶ校舎を見ながら進 むと、再び左側に住宅が並ぶように。このあたり、 鎌倉古道沿いで住所は横浜市奈良町ながら、もう 玉川学園前駅にほど近い住宅地。左に奈良北団地 に下りる信号を越えたあたりから丘と谷戸の風景 が広がり、道沿いにニラハウス(作家・赤瀬川源 平さんが住んだ家)も。そのまま下って小田急線 踏切、そして駅。12時前に到着し、南口の和食屋 さんとイタリアンの店に分かれて昼食をとりまし た。
以前は屋根にニラが植えてありました
かしの木山公園入口
午後の部は、まず1週間前に建替えオープンの学 園駅前コミュニティセンターを見学。
新装なった「玉川学園コミュニティセンター」(浅黄)
右に下って恩田川を渡ります。長い道のりで皆 さんお疲れ、「こがさかベイク」のカフェでお茶 タイムを取ることに。
「こがさかベイク」で一休み(浅黄)
東側に道をとって急坂を登り、再び鎌倉古道を 進みます。住宅地を抜けると右側に三井住友海上 のグラウンド(手前に町田市街地、遠くに丹沢・ 大山が望める)、左側は深い緑の昭和薬科大学。 さらに進んで元からの樹林を保全している「かし の木山自然公園(通称どんぐり山公園)」を歩き、 南の出入口から住宅地の中を行くと「鞍掛の松」 の碑(鎌倉攻めのとき新田義貞がここで休んだ) のある小さな公園に出ました。
休憩後、高ヶ坂遺跡(縄文中期の敷石住居跡)、 熊野神社を経て最終目的地の「芹が谷公園」に到 着。国内では唯一とされる版画専門の「国際版画 美術館」があります。公園は水と緑に恵まれた一 帯で、小さな子ども連れの家族がたくさん訪れて いました。
芹が谷公園の入口に国際版画美術館が建つ
動く彫刻、水がザーッと落ちてくる
雲行きが怪しいなと思ったら夕立がきて、公園 の東屋でしばし雨宿り。小やみになったところで 町田駅へ向かい、4時過ぎに解散しました。
川崎市から出発し横浜市をかすめ町田市へと結 構歩いたわけですが、谷戸の風景、丘陵の住宅地、 緑につつまれた学園や公園などを楽しむことがで きました。なおこのコース、トイレが駅前と公園 にしかないことにご注意ください。
( 文と写真:高見澤 邦郎 )
点 と 線
今回のルートはいずれもよく見聞きしている場 所でしたが「点」を知っていただけで、フットパ スでそれらを結ぶ「線」を歩くことができ、面白 い経験でした。以前、和光大学から玉川学園に抜 けるルートを適当に歩きはじめ、山越え谷越えで エライ目にあったことがあります。今回、尾根沿 いルートを知り、目からウロコ。また、学園南側 尾根の、今回一緒に歩いたTさん宅の前の道は、 なんと鎌倉古道だという。「鎌倉古道沿いにお住 まい?」。歴史に隣接している暮らしのようでち ょっと羨ましい。これをきっかけに鎌倉古道その ものにも俄然興味が湧きました。
途中で立ち寄った玉川学園駅前の新装コミュニ ティセンター入口にはユニークなベンチが置かれ ています。駅前の樹齢92年の大ケヤキ 夏は大 空に緑の葉がそよぎ、冬は天に大枝を差しのべる 姿が「いってらっしゃい」「おかえり」と言って いるようでした。それが枯死し2017年に切り倒さ れたのを、町の人たちが希望して蘇らせたのです。 それが町内在住の木彫家・前田忠一(ただかず)さ んにより姿を変えてお目見えしています。背板の 両面には町田市の鳥・カワセミ、ウサギ、イヌ、 バク、ミミズクたちが浅彫りされ「ようこそ」
「またね」と。
大ケヤキがベンチになった(浅黄)
( 文:塩澤 珠江 )
[講師:高見澤 邦郎 ]
急階段や尾根道がつなぐ豊かな日常
5月30日(日) 天気:晴 (一時雨) 参加者:11名 フットパスガイドマップの3と4をつなげて、
尾根と谷戸を、緑と住宅をという企画です(電車なら10分ちょっとですが)。朝10時、小田急線鶴川駅北口改札に集合し、町田寄りの踏切を渡って直進、鶴見川を渡って最初に立ち寄ったのが「さんかくガーデン」。道路と水路に挟まれた小さな土地を四季折々の草花でよみがえらせた住民管理の広場です。
「さんかくガーデン」は花一杯
先を急ぐので尾根に上がらずそのまま和光大学 方向へ。左に岡上の急坂の住宅地、右にわずかに 残った田んぼが見える道を10分ほど歩くと、建築 工房があって「季の庭」の表示が。この庭は上の 斜面にあった2軒の住宅が取り壊された跡地を工 房の夫妻が購入して開園したとのこと。この季節 はバラが美しいガーデンですが、残念ながらコロ ナ禍で閉鎖中。手前の急坂を登って上から眺めて みました。庭の向こうに大学が見えます。
手前が「季の庭」
さらに急な階段を上がって尾根道に到達。左側 の谷戸は川崎市の緑地保全地区に指定された樹林 帯で、右側には結構昔に建ったとおぼしい住宅が 続きます。やがて道は細くなり、都県境の標識が 地表に打たれているあたりからは左右とも玉川大 学の構内で、農学部の牛舎もありました。
牛舎が残っていました(浅黄)
さて道はそのまま玉川大学の構内に入ります。 手入れのいいキャンパスに並ぶ校舎を見ながら進 むと、再び左側に住宅が並ぶように。このあたり、 鎌倉古道沿いで住所は横浜市奈良町ながら、もう 玉川学園前駅にほど近い住宅地。左に奈良北団地 に下りる信号を越えたあたりから丘と谷戸の風景 が広がり、道沿いにニラハウス(作家・赤瀬川源 平さんが住んだ家)も。そのまま下って小田急線 踏切、そして駅。12時前に到着し、南口の和食屋 さんとイタリアンの店に分かれて昼食をとりまし た。
以前は屋根にニラが植えてありました
かしの木山公園入口
午後の部は、まず1週間前に建替えオープンの学 園駅前コミュニティセンターを見学。
新装なった「玉川学園コミュニティセンター」(浅黄)
右に下って恩田川を渡ります。長い道のりで皆 さんお疲れ、「こがさかベイク」のカフェでお茶 タイムを取ることに。
「こがさかベイク」で一休み(浅黄)
東側に道をとって急坂を登り、再び鎌倉古道を 進みます。住宅地を抜けると右側に三井住友海上 のグラウンド(手前に町田市街地、遠くに丹沢・ 大山が望める)、左側は深い緑の昭和薬科大学。 さらに進んで元からの樹林を保全している「かし の木山自然公園(通称どんぐり山公園)」を歩き、 南の出入口から住宅地の中を行くと「鞍掛の松」 の碑(鎌倉攻めのとき新田義貞がここで休んだ) のある小さな公園に出ました。
休憩後、高ヶ坂遺跡(縄文中期の敷石住居跡)、 熊野神社を経て最終目的地の「芹が谷公園」に到 着。国内では唯一とされる版画専門の「国際版画 美術館」があります。公園は水と緑に恵まれた一 帯で、小さな子ども連れの家族がたくさん訪れて いました。
芹が谷公園の入口に国際版画美術館が建つ
動く彫刻、水がザーッと落ちてくる
雲行きが怪しいなと思ったら夕立がきて、公園 の東屋でしばし雨宿り。小やみになったところで 町田駅へ向かい、4時過ぎに解散しました。
川崎市から出発し横浜市をかすめ町田市へと結 構歩いたわけですが、谷戸の風景、丘陵の住宅地、 緑につつまれた学園や公園などを楽しむことがで きました。なおこのコース、トイレが駅前と公園 にしかないことにご注意ください。
( 文と写真:高見澤 邦郎 )
点 と 線
今回のルートはいずれもよく見聞きしている場 所でしたが「点」を知っていただけで、フットパ スでそれらを結ぶ「線」を歩くことができ、面白 い経験でした。以前、和光大学から玉川学園に抜 けるルートを適当に歩きはじめ、山越え谷越えで エライ目にあったことがあります。今回、尾根沿 いルートを知り、目からウロコ。また、学園南側 尾根の、今回一緒に歩いたTさん宅の前の道は、 なんと鎌倉古道だという。「鎌倉古道沿いにお住 まい?」。歴史に隣接している暮らしのようでち ょっと羨ましい。これをきっかけに鎌倉古道その ものにも俄然興味が湧きました。
途中で立ち寄った玉川学園駅前の新装コミュニ ティセンター入口にはユニークなベンチが置かれ ています。駅前の樹齢92年の大ケヤキ 夏は大 空に緑の葉がそよぎ、冬は天に大枝を差しのべる 姿が「いってらっしゃい」「おかえり」と言って いるようでした。それが枯死し2017年に切り倒さ れたのを、町の人たちが希望して蘇らせたのです。 それが町内在住の木彫家・前田忠一(ただかず)さ んにより姿を変えてお目見えしています。背板の 両面には町田市の鳥・カワセミ、ウサギ、イヌ、 バク、ミミズクたちが浅彫りされ「ようこそ」
「またね」と。
大ケヤキがベンチになった(浅黄)
( 文:塩澤 珠江 )
他のまちのフットパスを見てみよう! 西荻~旧井萩町(村)を巡る
2021.05.23
他のまちのフットパスを見てみよう! 西荻~旧井萩町(村)を巡る
[講師:岩崎 英邦]
土地区画整理による 文化的郊外住宅地への進化を訪ねる
5月23日(日) 天気:晴 参加者:6名
旧井荻村(町)の地図です。上側は明治27年(1894)~大正4年(1915)の、下側は昭和3年(1929)~20年(1945)の地形図です。下側は既に土地区画整理が終わっています。同じような時期、田園調布や成城学園前では民間のデベロッパーによって拓かれ分譲されましたが、ここでは、大正14年(1925)から10年をかけ旧井荻村(町)という行政機関によって、全村(町)に渡って土地区画整理が行われました。総面積888町歩(約879ha)、単一の町村独自で行った事業としては全国屈指の大規模なものでした。優れた町づくりであったと同時に、近郊農村であった村(町)が郊外住宅地へと生まれ変わる基盤となったのです。
明治27年(1894)~大正4年(1915)の旧井萩村
昭和3年(1929)~20年(1945)の旧井萩村
旧井荻村(町)を今日は、①観泉寺→②桃井原 っぱ公園→井荻町役場跡(今日は寄りません)→
③荻窪八幡神社→④井荻町土地区画整理碑→⑤井 草八幡宮→⑥都立善福寺池公園→善福寺川沿い→ 西荻窪駅と歩きます。道すがら、真っ直ぐなこと 直角に交差していることなど道路を観察してくだ さい。土地区画整理を実感していただくことが旧 井荻村(町)巡りの目的です。
① 宝珠山観泉寺(杉並区今川2-16-1) 曹洞宗本尊は釈迦如来
戦国時代の名門今川氏ゆかりの寺として知られ ています。今川13代直房は、将軍家光の命を受け 東照大権現の宮号宣下の使者を勤めました。その 功により井草村など三ヶ村の加増を受けましたの で当寺を菩提寺と定め、祖父氏真を開基とし、万 昌院(現中野区)から祖父氏真の墓所を当寺に改 葬しました。
氏真は「桶狭間の戦」で織田信長によって父義元を失い、その後出家しましたが歌人としても多くの歌を残しています。当寺には上下井草村の古文書、板碑などが数多く保存されています。墓地には都指定旧跡の今川氏累代の墓があります。
今川家累代の墓(観泉寺)
旧井荻村四村は、江戸時代には上・下井草村は 今川氏領、上荻窪村は幕府直轄地、そして下荻窪 村は山王日枝神社領でした。当然年貢の率も違い、 村々に課せられている賦役も異なっていました。 成り立ちの違う四村が、明治22年(1889)町村制 施行に伴い合併したのです。観泉寺の住所の今川 は、今川氏に由来しています。観泉寺は今川氏の 領地支配の中心であり、ほかにも御菜園跡、行刑 屋敷跡、御茶園などが伝えられています。
②桃井原っぱ公園(杉並区桃井3-8-1) 中島飛行機発動機(株)東京工場跡地です。当社は「零式艦上戦闘機(零戦)」の「栄」や「寿」「誉」といった航空機のエンジンを設計・製造していました。戦後は富士産業(株)、富士精密工業(株)、プリンス自動車工業(株)と社名を変え、その後日産自動車(株)に合併されました。昭和28年(1953)、富士精密工業(株)は東京大学生産技術研究所(現文部科学省宇宙科学研究所)の指導を受けロケットの開発に着手。昭和30年(1955)にペンシルロケットの初フライトに成功し、これが日本のロケットの第1号となりました。
桃井原っぱ公園(中島飛行機・工場跡地)
大正14年(1925)中島飛行機発動機(株)東京工 場の誘致によって、井荻村は土地の有効活用、税 収の増大が見込まれたほか、周辺農家の次男坊・ 三男坊をはじめ子女への雇用創出、商店街の発展 や農家の現金収入をもたらした貸家の増加(農家 の地主化)など経済的・社会的な影響は計り知れ ないものがありました。
青梅街道際には、旧中島飛行機発動機発祥之地 の碑と並んでロケット発祥之地の碑もあり、ペン シルロケットが埋め込まれています。
ロケット発祥と旧中島飛行機発動機発祥之地の碑
「荻窪八幡神社」へは青梅街道を渡りますが、 荻窪駅方面左へ150mほど行くと、荻窪郵便局手 前に井荻村(町)役場跡の案内があります。逆に 右側へ行くと荻窪警察署、荻窪消防署があります。 この辺りが井荻村(町)の中心地だったのです。
③荻窪八幡神社(杉並区上荻4-19-2)
御祭神:応神天皇 社各等:村社 例大祭:9月
15日に近い日曜日この神社は旧上荻窪村の鎮守で、今から約1080年前の寛平年間に建立されたと伝えられています。
永承6年(1051)、源頼義が奥州の安倍貞任征伐の途中、ここに宿陣して戦勝を祈願。神恩に感謝して当社を厚く祭ったと言われています。
文明9年(1477)4月、江戸城主太田道灌は上 杉定正の命を受け石神井城主豊島泰経を攻めるにあたり、この神社に武 運を祈願しました。 この時植えたマキの樹1株が、500年の歳月が経 過した今も「道灌槙」と呼ばれ、御神木として大 切に保護されています。
荻窪八幡神社
④井荻町土地区画整理碑(杉並区善福寺1-33-1)
井草八幡宮東参道の北側、青梅街道沿いにあります。農家が主体となった土地区画整理によって農家自身が多大な収入・利益を得ることができました。井荻村(町)は土地区画整理に併せて大正10年(1921)に電灯を敷設し、井荻町水道を昭和5年(1930)に着工同7年(1932)3月に完成・給水を開始していま す。同年10月杉並区が誕生し編入され、井荻町は消滅しました。
井萩町土地区画整理碑
⑤井草八幡宮(杉並区善福寺1-33-1) 御祭神:八幡大神・応神天皇 社各等:郷社・別表 神社例大祭:9月30日~10月2日(3年に一度神 幸祭 5年に一度流鏑馬)
この神社は旧上、下井草村の鎮守です。明治時 代までこの付近の古い地名から,「遅野井八幡宮」 とも呼ばれていました。境内からは縄文時代中期
(約4000年前)の住居址が発見され、多くの土器 が発見されています。
当社は900余年の歴史をもつと伝えられ、社前 には源頼朝が文治2年(1186)奥州藤原泰衡征伐 の際、戦勝を祈願して手植えを寄進したという天 然記念物の大きなマツがありましたが、残念なが ら昭和48年(1973)枯れてしまいました。また、 江戸時代の慶安2年(1649年)徳川家光は、社殿 を造営させ朱印領六石を寄進しております。
都内の神社で一番広いのは明治神宮、二番は靖 国神社、三番は大宮八幡宮(杉並区)、四番目が 境内約一万坪の当社です。
井草八幡宮の大鳥居
都立善福寺池公園
本日、ご参加のみなさまと
善福寺川に沿って下り、西荻の町おこしの一環 として薮内佐斗司氏の「六童子」が設置してある 小さな街中の公園を訪ね歩いて、西荻窪駅に出ま した。
⑥都立善福寺池公園(杉並区善福寺2・3丁目) 善福寺池は井の頭池(都立井の頭恩賜公園)と
三宝寺池(都立石神井公園)に並んで武蔵野三大 湧水池として知られています。日本野鳥の会を設 立した中西悟堂氏が善福寺池の近くに住み、知人 等と野鳥の観察を行っていたことから「野鳥の聖 地」とも呼ばれているようです。
また善福寺川の水源となっているほか、東京都 水道局の杉並浄水所の水源にもなっています。23 区内の東京都水道局管轄の水道で、井戸を水源と しているのはここだけです。地下水の水質が良好 なため濾過は行わず今も消毒処理のみです。井荻 町水道はいまだに現役なのです。
六童子めぐり
(文: 岩﨑 英邦 写真:田邊)
[講師:岩崎 英邦]
土地区画整理による 文化的郊外住宅地への進化を訪ねる
5月23日(日) 天気:晴 参加者:6名
旧井荻村(町)の地図です。上側は明治27年(1894)~大正4年(1915)の、下側は昭和3年(1929)~20年(1945)の地形図です。下側は既に土地区画整理が終わっています。同じような時期、田園調布や成城学園前では民間のデベロッパーによって拓かれ分譲されましたが、ここでは、大正14年(1925)から10年をかけ旧井荻村(町)という行政機関によって、全村(町)に渡って土地区画整理が行われました。総面積888町歩(約879ha)、単一の町村独自で行った事業としては全国屈指の大規模なものでした。優れた町づくりであったと同時に、近郊農村であった村(町)が郊外住宅地へと生まれ変わる基盤となったのです。
明治27年(1894)~大正4年(1915)の旧井萩村
昭和3年(1929)~20年(1945)の旧井萩村
旧井荻村(町)を今日は、①観泉寺→②桃井原 っぱ公園→井荻町役場跡(今日は寄りません)→
③荻窪八幡神社→④井荻町土地区画整理碑→⑤井 草八幡宮→⑥都立善福寺池公園→善福寺川沿い→ 西荻窪駅と歩きます。道すがら、真っ直ぐなこと 直角に交差していることなど道路を観察してくだ さい。土地区画整理を実感していただくことが旧 井荻村(町)巡りの目的です。
① 宝珠山観泉寺(杉並区今川2-16-1) 曹洞宗本尊は釈迦如来
戦国時代の名門今川氏ゆかりの寺として知られ ています。今川13代直房は、将軍家光の命を受け 東照大権現の宮号宣下の使者を勤めました。その 功により井草村など三ヶ村の加増を受けましたの で当寺を菩提寺と定め、祖父氏真を開基とし、万 昌院(現中野区)から祖父氏真の墓所を当寺に改 葬しました。
氏真は「桶狭間の戦」で織田信長によって父義元を失い、その後出家しましたが歌人としても多くの歌を残しています。当寺には上下井草村の古文書、板碑などが数多く保存されています。墓地には都指定旧跡の今川氏累代の墓があります。
今川家累代の墓(観泉寺)
旧井荻村四村は、江戸時代には上・下井草村は 今川氏領、上荻窪村は幕府直轄地、そして下荻窪 村は山王日枝神社領でした。当然年貢の率も違い、 村々に課せられている賦役も異なっていました。 成り立ちの違う四村が、明治22年(1889)町村制 施行に伴い合併したのです。観泉寺の住所の今川 は、今川氏に由来しています。観泉寺は今川氏の 領地支配の中心であり、ほかにも御菜園跡、行刑 屋敷跡、御茶園などが伝えられています。
②桃井原っぱ公園(杉並区桃井3-8-1) 中島飛行機発動機(株)東京工場跡地です。当社は「零式艦上戦闘機(零戦)」の「栄」や「寿」「誉」といった航空機のエンジンを設計・製造していました。戦後は富士産業(株)、富士精密工業(株)、プリンス自動車工業(株)と社名を変え、その後日産自動車(株)に合併されました。昭和28年(1953)、富士精密工業(株)は東京大学生産技術研究所(現文部科学省宇宙科学研究所)の指導を受けロケットの開発に着手。昭和30年(1955)にペンシルロケットの初フライトに成功し、これが日本のロケットの第1号となりました。
桃井原っぱ公園(中島飛行機・工場跡地)
大正14年(1925)中島飛行機発動機(株)東京工 場の誘致によって、井荻村は土地の有効活用、税 収の増大が見込まれたほか、周辺農家の次男坊・ 三男坊をはじめ子女への雇用創出、商店街の発展 や農家の現金収入をもたらした貸家の増加(農家 の地主化)など経済的・社会的な影響は計り知れ ないものがありました。
青梅街道際には、旧中島飛行機発動機発祥之地 の碑と並んでロケット発祥之地の碑もあり、ペン シルロケットが埋め込まれています。
ロケット発祥と旧中島飛行機発動機発祥之地の碑
「荻窪八幡神社」へは青梅街道を渡りますが、 荻窪駅方面左へ150mほど行くと、荻窪郵便局手 前に井荻村(町)役場跡の案内があります。逆に 右側へ行くと荻窪警察署、荻窪消防署があります。 この辺りが井荻村(町)の中心地だったのです。
③荻窪八幡神社(杉並区上荻4-19-2)
御祭神:応神天皇 社各等:村社 例大祭:9月
15日に近い日曜日この神社は旧上荻窪村の鎮守で、今から約1080年前の寛平年間に建立されたと伝えられています。
永承6年(1051)、源頼義が奥州の安倍貞任征伐の途中、ここに宿陣して戦勝を祈願。神恩に感謝して当社を厚く祭ったと言われています。
文明9年(1477)4月、江戸城主太田道灌は上 杉定正の命を受け石神井城主豊島泰経を攻めるにあたり、この神社に武 運を祈願しました。 この時植えたマキの樹1株が、500年の歳月が経 過した今も「道灌槙」と呼ばれ、御神木として大 切に保護されています。
荻窪八幡神社
④井荻町土地区画整理碑(杉並区善福寺1-33-1)
井草八幡宮東参道の北側、青梅街道沿いにあります。農家が主体となった土地区画整理によって農家自身が多大な収入・利益を得ることができました。井荻村(町)は土地区画整理に併せて大正10年(1921)に電灯を敷設し、井荻町水道を昭和5年(1930)に着工同7年(1932)3月に完成・給水を開始していま す。同年10月杉並区が誕生し編入され、井荻町は消滅しました。
井萩町土地区画整理碑
⑤井草八幡宮(杉並区善福寺1-33-1) 御祭神:八幡大神・応神天皇 社各等:郷社・別表 神社例大祭:9月30日~10月2日(3年に一度神 幸祭 5年に一度流鏑馬)
この神社は旧上、下井草村の鎮守です。明治時 代までこの付近の古い地名から,「遅野井八幡宮」 とも呼ばれていました。境内からは縄文時代中期
(約4000年前)の住居址が発見され、多くの土器 が発見されています。
当社は900余年の歴史をもつと伝えられ、社前 には源頼朝が文治2年(1186)奥州藤原泰衡征伐 の際、戦勝を祈願して手植えを寄進したという天 然記念物の大きなマツがありましたが、残念なが ら昭和48年(1973)枯れてしまいました。また、 江戸時代の慶安2年(1649年)徳川家光は、社殿 を造営させ朱印領六石を寄進しております。
都内の神社で一番広いのは明治神宮、二番は靖 国神社、三番は大宮八幡宮(杉並区)、四番目が 境内約一万坪の当社です。
井草八幡宮の大鳥居
都立善福寺池公園
本日、ご参加のみなさまと
善福寺川に沿って下り、西荻の町おこしの一環 として薮内佐斗司氏の「六童子」が設置してある 小さな街中の公園を訪ね歩いて、西荻窪駅に出ま した。
⑥都立善福寺池公園(杉並区善福寺2・3丁目) 善福寺池は井の頭池(都立井の頭恩賜公園)と
三宝寺池(都立石神井公園)に並んで武蔵野三大 湧水池として知られています。日本野鳥の会を設 立した中西悟堂氏が善福寺池の近くに住み、知人 等と野鳥の観察を行っていたことから「野鳥の聖 地」とも呼ばれているようです。
また善福寺川の水源となっているほか、東京都 水道局の杉並浄水所の水源にもなっています。23 区内の東京都水道局管轄の水道で、井戸を水源と しているのはここだけです。地下水の水質が良好 なため濾過は行わず今も消毒処理のみです。井荻 町水道はいまだに現役なのです。
六童子めぐり
(文: 岩﨑 英邦 写真:田邊)
フットパス専門家講座 座間の旧集落から谷戸山公園へ
2021.05.16
フットパス専門家講座 座間の旧集落から谷戸山公園へ
[講師:浅黄 美彦]
地形の変化をたのしみ まちづくりの魅力を探る
5月16日(日)天気:曇り時々雨 参加者:9名
前回のフットパス専門家講座では、古街道研究 家の宮田先生のガイドにより、相原七国峠、高座 郡を見渡す相模野台地の奥の古道を歩きました。 今回も「高座郡」の真ん中あたり、相模川の中流 域にある神奈川県座間市の台地、丘陵、崖線を横 切るように地形を楽しみながら歩きました。
朝10時、小田急線相武台前駅改札に集合。まず は相武台前駅にある操車場と変電所を見て“昭和” を感じました。
操車場:相模川から砂利をトロッコ鉄道で相武台前駅に運 び、積み替えた集積所の跡地利用
小田急変電所:大正末期に建設された市内最古のRC建造物
相武台前駅から南へ少し歩くと、相模野台地を 削る谷戸にある「かにが沢公園」に着く。駅の直 近に谷の始まり「谷頭」が確認でき、スリバチビ ューを眺めることができます。
かにが沢公園からのスリバチビュー
細長い公園の斜面を下りながらさらに南へ。谷 底にある住宅地を抜けると、栗原遊水地に出ます。 相模野台地西端の崖下を源流とする目久尻川の遊 水池です。
目久尻川遊水地:2つの崖線に挟まれた3級スリバチ
遊水地西側の崖の階段を上った高台に、昭和40 年代初めに200戸ほど計画開発された第一住宅分 譲地があります。この住宅地は、地区計画制度が 指定された良好な戸建て住宅の環境が保たれてい ます。
市役所庁舎脇を通って「県立谷戸山公園」へ。 昭和59年にアーバンエコロジーパーク(都市の中 の自然生態観察公園)として都市計画決定され、 原地形を生かした公園として平成5年に開園しま した。
公園内の古道から見た大山
集合写真(田邊)
谷戸山のある座間丘陵は、戦前に陸軍士官学校(昭和12年開校戦後にキャンプ座間)、小田急の座間遊園地計画(林間都市計画の一環として用地取得するも戦争で中止となった。別荘地分譲を経て、戦後計画住宅地となった谷戸山公園の南側エリア)などにより大きく変貌しました。そうした中で座間丘陵の真ん中にある谷戸山は、里山の風景を残す貴重な場所であることがわかります。
谷戸山公園の西門を出て小田急線の小さな踏切 を渡ると星谷寺。坂東33番札所のひとつです。昼 間でも星が映るといわれている井戸をちらりと見 ながら、すでに午後1時を過ぎているので、急ぎ 鈴鹿明神社近くの蕎麦屋へ向かいました。
午後は相模川河岸段丘の崖下の自然堤防上にあ る旧集落「鈴鹿・長宿地区」へ。かつて近郊のど こにでもあった旧集落の佇まいを今も残すまちを 歩きました。
1990年頃から少しずつ丹念に地域とともにまち づくりを進めてきたエリアです。地区の骨格とな る崖線の緑(ハケ)は、特別緑地保全地区として 保全し、用途地域は第1種低層住居専用地域にダ ウンゾーニング。建物の意匠、形態などよりきめ 細かなルールは、街づくり協定と景観条例。道路、 水路、広場の整備は街並み環境整備事業など、目 標に沿っていくつかの手法を重ねて、何気なくほ っとする街なみづくりを進めてきた地区です。
座間の航空写真:キャンプ座間、谷戸山、計画住宅地
鈴鹿の街なみ
鈴鹿長宿から座間駅への帰り道は、心岩寺横の 崖線の急な階段を上り、最後の力を絞ってもらい 坂のまち座間を体感してもらいました。最後に座 間駅前にある小田急電鉄の社宅をリノベーション したホシノタニ団地にあるランドリーカフェで歓 談して解散。ここも戦前は砂利置き場であった場 所でした。
いつもの多摩丘陵とは違う相模野台地西端の丘陵の公園と、崖沿いの旧集落を案内させていただ
きました。
(文と写真:浅黄 美彦)
[講師:浅黄 美彦]
地形の変化をたのしみ まちづくりの魅力を探る
5月16日(日)天気:曇り時々雨 参加者:9名
前回のフットパス専門家講座では、古街道研究 家の宮田先生のガイドにより、相原七国峠、高座 郡を見渡す相模野台地の奥の古道を歩きました。 今回も「高座郡」の真ん中あたり、相模川の中流 域にある神奈川県座間市の台地、丘陵、崖線を横 切るように地形を楽しみながら歩きました。
朝10時、小田急線相武台前駅改札に集合。まず は相武台前駅にある操車場と変電所を見て“昭和” を感じました。
操車場:相模川から砂利をトロッコ鉄道で相武台前駅に運 び、積み替えた集積所の跡地利用
小田急変電所:大正末期に建設された市内最古のRC建造物
相武台前駅から南へ少し歩くと、相模野台地を 削る谷戸にある「かにが沢公園」に着く。駅の直 近に谷の始まり「谷頭」が確認でき、スリバチビ ューを眺めることができます。
かにが沢公園からのスリバチビュー
細長い公園の斜面を下りながらさらに南へ。谷 底にある住宅地を抜けると、栗原遊水地に出ます。 相模野台地西端の崖下を源流とする目久尻川の遊 水池です。
目久尻川遊水地:2つの崖線に挟まれた3級スリバチ
遊水地西側の崖の階段を上った高台に、昭和40 年代初めに200戸ほど計画開発された第一住宅分 譲地があります。この住宅地は、地区計画制度が 指定された良好な戸建て住宅の環境が保たれてい ます。
市役所庁舎脇を通って「県立谷戸山公園」へ。 昭和59年にアーバンエコロジーパーク(都市の中 の自然生態観察公園)として都市計画決定され、 原地形を生かした公園として平成5年に開園しま した。
公園内の古道から見た大山
集合写真(田邊)
谷戸山のある座間丘陵は、戦前に陸軍士官学校(昭和12年開校戦後にキャンプ座間)、小田急の座間遊園地計画(林間都市計画の一環として用地取得するも戦争で中止となった。別荘地分譲を経て、戦後計画住宅地となった谷戸山公園の南側エリア)などにより大きく変貌しました。そうした中で座間丘陵の真ん中にある谷戸山は、里山の風景を残す貴重な場所であることがわかります。
谷戸山公園の西門を出て小田急線の小さな踏切 を渡ると星谷寺。坂東33番札所のひとつです。昼 間でも星が映るといわれている井戸をちらりと見 ながら、すでに午後1時を過ぎているので、急ぎ 鈴鹿明神社近くの蕎麦屋へ向かいました。
午後は相模川河岸段丘の崖下の自然堤防上にあ る旧集落「鈴鹿・長宿地区」へ。かつて近郊のど こにでもあった旧集落の佇まいを今も残すまちを 歩きました。
1990年頃から少しずつ丹念に地域とともにまち づくりを進めてきたエリアです。地区の骨格とな る崖線の緑(ハケ)は、特別緑地保全地区として 保全し、用途地域は第1種低層住居専用地域にダ ウンゾーニング。建物の意匠、形態などよりきめ 細かなルールは、街づくり協定と景観条例。道路、 水路、広場の整備は街並み環境整備事業など、目 標に沿っていくつかの手法を重ねて、何気なくほ っとする街なみづくりを進めてきた地区です。
座間の航空写真:キャンプ座間、谷戸山、計画住宅地
鈴鹿の街なみ
鈴鹿長宿から座間駅への帰り道は、心岩寺横の 崖線の急な階段を上り、最後の力を絞ってもらい 坂のまち座間を体感してもらいました。最後に座 間駅前にある小田急電鉄の社宅をリノベーション したホシノタニ団地にあるランドリーカフェで歓 談して解散。ここも戦前は砂利置き場であった場 所でした。
いつもの多摩丘陵とは違う相模野台地西端の丘陵の公園と、崖沿いの旧集落を案内させていただ
きました。
(文と写真:浅黄 美彦)
フットパス専門家講座 相原七国峠古道の中世・粟飯原氏 のムラ跡を探る
2021.04.18
フットパス専門家講座 相原七国峠古道の中世・粟飯原氏 のムラ跡を探る
[講師:古街道研究家 宮田太郎]
関東山の辺の古街道をたどりつつ、貴重な歴史環境に夢をはせよう
4月18日(日) 天気:晴 参加者:16名
かつて古代から中世、さらに江戸時代を経て明 治時代まで様々に活用され、深い歴史を刻んでき た古街道の一つが、町田市の相原に約1.2キロ メートルに渡って残されています。「 相原七国峠 古道 」の名称はいつから使われだしたか不明です が、講師ガイドを担当した小生(宮田)の活動記 録集では、平成5年(1993年)4月18日に
「多摩丘陵古街道探索会・第19回(たま古街道 帥人会)」という探索ウォークでこの名称を初め て挙げています。
今回のNPOみどりのゆびのイベントウォーク では、発足以来何度かこのコースも実施したかと は思いますが、近年SNSでも取り上げられ、また 地元の有志の会の皆さんがよく手入れをしてくだ さっていることもあり、神谷代表から「再度みな で歩きたいですね」とのお話を頂き、今回の実施 となりました。当日は初めて訪ねた参加者や、若 手で中世の城が好きなメンバーなども加わり賑わ いのある探索となりました。
特に相原地名の元になったとも考えられる鎌倉 時代武士団「粟飯原氏(あいはらし)」の推定居 住区域にも入り、津久井街道の二本松へ(さらに 鎌倉へ)と続くこの古街道のルートについても、 地域のお寺の壁沿いや住宅地の路地や区割りを参 考に、楽しく推理しながら探索できたのは有意義 なことでした。
【コースと見どころ】
①JR相原駅に集合してから、見晴らしの良い丘の中腹を西へと歩きました。鎌倉時代創建の「丸山諏訪神社」までのコースから見る展望は素晴らしいもので、相模原台地(相模野) が盛り上がった丘として眼前に広がり、大山や丹沢の山々、また富士山も上半分の雄姿を現す( 当日は雲があってちょっと残念 )など最高のロケーションです。
②カイト=「開都」という良い字をあてた古地名 が明治時代の地図に見られる丘の「長福寺」にて、 文殊堂、大奥から城下がりになった女性と侍女を 供養した地蔵尊像などを見学し、「朱雀路」とか つて命名された( 境川上流域研究会 )遊歩道コ ースから横穴古墳の位置も眺めました。
③相原起番地の標柱がある粟飯原氏居住区(境川 を神奈川県側に渡った相模原市相原地区内 )につ ながる、この古街道推定ラインをたどりました。 さらに今から20年ほど前に畑の中に開いていた大 きな穴に入って、地下の壁面で確認していた「中 世の道路遺構( 推定 )」の位置を想い出しつつ、 当時の踏査資料(宮田)を参考に皆さんと探索し ました。
④相原七国峠古道の峠付近では希少な「荷車の轍(ワダチ)跡」や関所跡?も観察。また、頂上の「大日堂」から下る道筋の土壁に無数に見られた小穴が、絶滅危惧種で世界最小サイズの「トウキョウトガリネズミ」の巣(複数なのでアパート?)の出入り口ではないか???と、皆でワイワイ・興味津々で観察しました。
【 総合的感想 】関東山の辺の道でもあるこの道 は古代の窯跡群も眠っていたり、戦国時代には小 田原へ向かう北条氏照の軍勢が通過したという言 い 伝えや、山形の月山・羽黒山・湯殿山まで通っ ていた翁たちのことを刻んだ三山供養塔もあり、 まだまだ謎が多い古街道。ぜひこの全体の歴史環 境を町田の宝として、後世に遺したいと一同確認 し合いました。 (文:宮田太郎)
本日の参加のみなさまと
今日も見つけました縄文土器
配布資料の明治時代の地図で現在位置の確認
[講師:古街道研究家 宮田太郎]
関東山の辺の古街道をたどりつつ、貴重な歴史環境に夢をはせよう
4月18日(日) 天気:晴 参加者:16名
かつて古代から中世、さらに江戸時代を経て明 治時代まで様々に活用され、深い歴史を刻んでき た古街道の一つが、町田市の相原に約1.2キロ メートルに渡って残されています。「 相原七国峠 古道 」の名称はいつから使われだしたか不明です が、講師ガイドを担当した小生(宮田)の活動記 録集では、平成5年(1993年)4月18日に
「多摩丘陵古街道探索会・第19回(たま古街道 帥人会)」という探索ウォークでこの名称を初め て挙げています。
今回のNPOみどりのゆびのイベントウォーク では、発足以来何度かこのコースも実施したかと は思いますが、近年SNSでも取り上げられ、また 地元の有志の会の皆さんがよく手入れをしてくだ さっていることもあり、神谷代表から「再度みな で歩きたいですね」とのお話を頂き、今回の実施 となりました。当日は初めて訪ねた参加者や、若 手で中世の城が好きなメンバーなども加わり賑わ いのある探索となりました。
特に相原地名の元になったとも考えられる鎌倉 時代武士団「粟飯原氏(あいはらし)」の推定居 住区域にも入り、津久井街道の二本松へ(さらに 鎌倉へ)と続くこの古街道のルートについても、 地域のお寺の壁沿いや住宅地の路地や区割りを参 考に、楽しく推理しながら探索できたのは有意義 なことでした。
【コースと見どころ】
①JR相原駅に集合してから、見晴らしの良い丘の中腹を西へと歩きました。鎌倉時代創建の「丸山諏訪神社」までのコースから見る展望は素晴らしいもので、相模原台地(相模野) が盛り上がった丘として眼前に広がり、大山や丹沢の山々、また富士山も上半分の雄姿を現す( 当日は雲があってちょっと残念 )など最高のロケーションです。
②カイト=「開都」という良い字をあてた古地名 が明治時代の地図に見られる丘の「長福寺」にて、 文殊堂、大奥から城下がりになった女性と侍女を 供養した地蔵尊像などを見学し、「朱雀路」とか つて命名された( 境川上流域研究会 )遊歩道コ ースから横穴古墳の位置も眺めました。
③相原起番地の標柱がある粟飯原氏居住区(境川 を神奈川県側に渡った相模原市相原地区内 )につ ながる、この古街道推定ラインをたどりました。 さらに今から20年ほど前に畑の中に開いていた大 きな穴に入って、地下の壁面で確認していた「中 世の道路遺構( 推定 )」の位置を想い出しつつ、 当時の踏査資料(宮田)を参考に皆さんと探索し ました。
④相原七国峠古道の峠付近では希少な「荷車の轍(ワダチ)跡」や関所跡?も観察。また、頂上の「大日堂」から下る道筋の土壁に無数に見られた小穴が、絶滅危惧種で世界最小サイズの「トウキョウトガリネズミ」の巣(複数なのでアパート?)の出入り口ではないか???と、皆でワイワイ・興味津々で観察しました。
【 総合的感想 】関東山の辺の道でもあるこの道 は古代の窯跡群も眠っていたり、戦国時代には小 田原へ向かう北条氏照の軍勢が通過したという言 い 伝えや、山形の月山・羽黒山・湯殿山まで通っ ていた翁たちのことを刻んだ三山供養塔もあり、 まだまだ謎が多い古街道。ぜひこの全体の歴史環 境を町田の宝として、後世に遺したいと一同確認 し合いました。 (文:宮田太郎)
本日の参加のみなさまと
今日も見つけました縄文土器
配布資料の明治時代の地図で現在位置の確認
長福寺にて文殊堂、地蔵尊像を見学
相原中央公園から七国峠へ向かう
相原七国峠古道の峠付近の希少な「荷車の轍(ワダチ)跡」
( 写真:田邊 )
宮田先生が語る 歴史ロマンに導かれて
JR横浜線相原駅西口広場 午前10時集合。 駅前北側の階段を上ると、そこには旧家と古道。 早くも歴史ロマンの世界となる。
旧家と古道
坂道の途中の畑には井戸がある。さらに上ると 眺めが素晴らしい「丸山諏訪神社」裏へ。まさに 相原・奥相模の眺望、確かに古代ロマンを感じる。
諏訪神社社裏からの奥相模の眺望
丸山諏訪神社から西へ。集落内の道を進み、急 な階段を上ると相原の名刹長福寺。文珠堂の龍の 彫刻、大奥に仕えた中臈の像など見どころも多い。 高台にある長福寺からも、長者窪の横穴古墳その 先の大山など、奥相模の眺望を楽しむことができ る。長福寺のある山を下り相模中央公園で昼食。
中臈の像
長福寺からの眺望
午後はいよいよ相原七国峠古道へ。 戦争末期、戦車が隠されていたとされる谷戸を
抜け、古道沿いにある羽黒三山供養塔の由来や古 道に残された轍の跡など、生の歴史的遺物を前に した宮田先生の古代ロマン溢れる解説を堪能させ ていただきました。
相原七国峠古道
大日堂から南へ下り、町田街道で解散。
素晴らしい生け垣のある旧家
「境川と相模川の間が高座という。高座郡の奥 に相原がある。」この出だしの宮田先生の語りで 一気に古代ロマンの世界に引き込まれていく。 平塚・大磯の高麗山とのつながり、府中の国衙と 相模国府の海老名との線上にある座間市の星谷寺
、古代の駅家(うまや)夷参(いさま→座間)と
の繋がりなど、次回のフットパスコースに繋がる
話も聞け、古代歴史ロマンの面白さの一端を味わ
うことができました。
( 文と写真:浅黄 美彦 )
フットパス専門家講座 スミレ博士による新百合ケ丘の春
2021.04.11
フットパス専門家講座 スミレ博士による新百合ケ丘の春
[講師:植物研究家 山田 隆彦]
開発前も今も楽しませてくれる 新百合ヶ丘周辺の植物
4月11日(日)天気:晴 参加者:12名
平成元年7月にこの地に越してきて、もう33年 にもなる。1ヵ所にこんなに長く住んだのは初め てで、最短は南浦和の7カ月、最長記録は行徳の
13年間であった。その前は阪神間、下関、小倉、 奈良、京都、甲子園と西日本が中心で、新百合ヶ 丘に住むことになるなど夢にも思っていなかった。 世の中がバブル景気の頃、広い間取りのマンショ ンを探していたのだが、今と違いすんなり買える ところは、びっくりするような高額。なんとか手 が届くところは抽選があり、総て落選。困ってい たところ、たまたま勤務先の同僚から教えてもら い一緒に申し込んだのが今のマンションである。 抽選倍率99倍に当選しこの地に住むことになった。 そのころ、尻手黒川線はマンションの前から世田 谷通りまでは開通しておらず、駅からのメイン道 路も車はほとんど走っていなかった。駅の周りに はスーパーもなく、買い物は周辺の町田や稲城に 行かなければならなかった。
駅からわが家まではほとんど空き地で、そこは 長く種々の草花が生い茂るお花畑となり、植物愛 好家が遠くから訪ねてきていた。私にとって、は じめて見るヨーロッパ原産のセイヨウヒキヨモギ が群生していた。この植物には腺毛が全体に生え、 触るとベトつくのを確認して喜んだり、マンショ ンの周りの草地には日本ではじめて見つかった帰 化植物(外国から入って定着した植物)があった
り、話題にはことかかなかった。その植物の名は コメツブヤエムグラといい、アカネ科で1992年に 日本新産の帰化植物として新百合ヶ丘の標本をも とに発表されている。先日、残っていないか探し てみたら、道路の割れ目などにはなく、主がいな くなり、放置されたフラワーボツクスに群がって 小さな花をつけていた。この先、消えてしまうの も時間の問題だ。
セイヨウヒキヨモギ
コメツブヤエムグラ
新百合ヶ丘周辺で、私の好きな観察地は、麻生 スポーツセンター横にある山口白山公園で、多摩 丘陵を中心に分布するタマノカンアオイが群生し ている。4月中旬に花が盛りとなり、葉の下で隠 れて咲いている。タマノカンアオイの花粉媒介は キノコバエやダンゴムシなどによるが、それを確 かめたく長く座って観察するのだが、なかなか出 合わない。夕方に集まってくるのだと聞いた。確 かに、高尾山ではキノコバエの媒介するコチャル メルソウにキノコバエが寄ってきていたのは、午 後4時ごろであった。ただ、この時間は蚊の襲来 があり、まだ観察する勇気が起きない。
タマノカンアオイ
ここには、ムラサキシキブほかヤブムラサキが 多く生えている。このヤブムラサキは金鉱脈探索 植物として利用されている。植物による鉱脈探し は、今から百年ほど前にイギリスの植物学者のラ ングイィッツが、植物中の金の含有量を測ること で金鉱脈を探せると指摘したことが始まりである。 金の鉱床が確認されている青森県の恐山ではナナ カマド、チシマザサが、鹿児島県菱刈鉱山では ヤブムラサキ、イヌビワ、ウラジロにおいて金の 含有量が高いことがわかった。鹿児島県、島根県 では、特にヤブムラサキが金を多量に含み、金鉱 脈に対する有望な探索植物であることがわかって いるそうだ。土壌を分析するより、植物を分析し たほうがより広い範囲の地下の様子がわかるそう だ。 ヤブムラサキに蓄積された金の含有量は、 金鉱脈から500m~1km以上離れたところでも比 較的高い数値を示すという。ヤブムラサキのよう な金を集積する植物には, 5/100000000(一億分の 五)ほどの金が含まれているそうだ。
ヤブムラサキ
わがマンションの南側に、小高い茶臼山がある。 先日の散策時に、ご案内した所だが、ヤマテリハ ノイバラの白い花、シラカシ、アラカシ、ウラジ ロガシ、アワブキ、タブノキなど、種々の樹木が 生えている。居間から、四季折々の樹々のいろど りを楽しめる。春の新緑、ヤマザクラの花、秋の 紅葉、冬の雪景色、緑いっぱいの眺めに満足して いる。新百合ヶ丘はなかなかよいところである。
ベランダから茶臼山の眺め
( 文と写真:山田 隆彦 )
都会的立体空間と里山をつなぐ みどりの魅力
小田急線「新百合ヶ丘」駅南口。眼前には広い遊歩 道が緑を従えて、近代的なビルの群を貫いています。 中央に佇むのはこの地域のシンボル、ユリの花を掲げ るブロンズの彫刻です。
駅南口のシンボルの彫刻
この日はエリア内にお住まいの“スミレ博士”こと山 田隆彦先生に、緑豊かな地元をご案内いただくフット パスです。さっそく中央のペデストリアンデッキを右 にとると、遊歩道には大小の灌木が植え込まれた水路 状の緑地が。行き交う人たちと腰を下ろして寛ぐ人た ち、それぞれが濃くなり始めた緑に溶け込んでいます。
山田先生、立ち止まってさっそく樹木の解説です。 密になるのを避けながら、取り囲む一行。まだスター トしたばかりなのに、この調子では長い遊歩道を渡り 切るまでにどれくらいの時間がかかるやら。両脇には 商業ビルやホテル、大学などが建ち並び、見下ろせば 尻手黒川線が街路樹の葉陰の下を通ります。
駅前遊歩道の緑スペース(田邊)
遊歩道の樹木も可愛らしい花を付けて
このエリアは山林の割合が60%超という起伏の ある椀状の丘陵地で、新百合ヶ丘駅が開業したの は1974年。地域住民と行政一体の駅周辺開発計画 や小田急電鉄のまちづくり構想も功を奏し、1998 年には都市景観大賞を受賞。今では映画や音楽大 学、川崎市アートセンターなど、駅周辺に芸術文 化関係の施設が集まる「緑あふれる芸術の街」と なっています。
駅南口周辺の都会的な緑の展開を観察した後、 深い木立に囲まれたグラウンドへの斜面を下り、 雑木林のある山口白山公園へ。途中、「新百合ヶ 丘駅周辺景観計画特定地区・都市景観形成地区」 のプレートが。公園の階段を住宅街に向かってさ らに下ると、そこはなんと鎌倉街道。「山口谷戸 の石塔群」も刈り込まれたサツキに囲まれて、道 往く人を見守っているようです。
新百合ヶ丘といえば、アメニティ・タウンとし て緑の生垣や街路樹が美しい山口台の街並みが知 られています。環境保全委員会が組織され、積極 的にまちづくりに取り組んでいる結果なのです。
山口白山公園の雑木林
住宅街を抜けて、市民農園ののどかな光景を眺 めながら歩く麻生川も魅力です。有名な桜並木も 今年は開花が早く、川面には花筏の名残が少々。 それでも、擁壁に群れ咲くヒメツルソバやペラペ ラヨメナの愛らしい小花が印象的でした。
ヒメツルソバ
パラペラヨメナ
アメリカスミレサイシン
橋を渡って、川に添って走る世田谷街道へ。ここか ら柿生方向に歩き、修廣寺へ。15世紀初めに開創され た禅寺で、石段を登った境内の奥の尾根道に雑木林が 広がります。木漏れ日を受けた小径の両側には、可憐 なチゴユリ、キンランも! 多摩地域特有のタマノカ ンアオイの群生には、一同歓喜の声。葉っぱをそっと めくると、根元の土の中から覗くように海老茶色の花 を付けています。ここは地元の有志たちによって保護 管理されているそうで、地域の原風景を残す気概を感 じたことでした。
さて、新百合ヶ丘駅周辺でお昼をということに なり、駅北口近くの「リリーズ バイ プロメティ ー」へ。農家のシェフがつくる野菜中心の農家レ ストランです。昨年のフットパスで訪れた、岡上 で自家栽培するブドウのワインも少々いただきな がらのランチは、午後の英気も養ってくれました。
食後、レストラン前(田邊)
まちづくりが取り組む里山・里地の残す緑と新 しく配置する緑、進化するみどり環境を体感でき たフットパスでした。
修廣寺裏の雑木林
キンラン
チゴユリ
修廣寺からの尾根道(田邊)
(文と写真:横山 禎子)
[講師:植物研究家 山田 隆彦]
開発前も今も楽しませてくれる 新百合ヶ丘周辺の植物
4月11日(日)天気:晴 参加者:12名
平成元年7月にこの地に越してきて、もう33年 にもなる。1ヵ所にこんなに長く住んだのは初め てで、最短は南浦和の7カ月、最長記録は行徳の
13年間であった。その前は阪神間、下関、小倉、 奈良、京都、甲子園と西日本が中心で、新百合ヶ 丘に住むことになるなど夢にも思っていなかった。 世の中がバブル景気の頃、広い間取りのマンショ ンを探していたのだが、今と違いすんなり買える ところは、びっくりするような高額。なんとか手 が届くところは抽選があり、総て落選。困ってい たところ、たまたま勤務先の同僚から教えてもら い一緒に申し込んだのが今のマンションである。 抽選倍率99倍に当選しこの地に住むことになった。 そのころ、尻手黒川線はマンションの前から世田 谷通りまでは開通しておらず、駅からのメイン道 路も車はほとんど走っていなかった。駅の周りに はスーパーもなく、買い物は周辺の町田や稲城に 行かなければならなかった。
駅からわが家まではほとんど空き地で、そこは 長く種々の草花が生い茂るお花畑となり、植物愛 好家が遠くから訪ねてきていた。私にとって、は じめて見るヨーロッパ原産のセイヨウヒキヨモギ が群生していた。この植物には腺毛が全体に生え、 触るとベトつくのを確認して喜んだり、マンショ ンの周りの草地には日本ではじめて見つかった帰 化植物(外国から入って定着した植物)があった
り、話題にはことかかなかった。その植物の名は コメツブヤエムグラといい、アカネ科で1992年に 日本新産の帰化植物として新百合ヶ丘の標本をも とに発表されている。先日、残っていないか探し てみたら、道路の割れ目などにはなく、主がいな くなり、放置されたフラワーボツクスに群がって 小さな花をつけていた。この先、消えてしまうの も時間の問題だ。
セイヨウヒキヨモギ
コメツブヤエムグラ
新百合ヶ丘周辺で、私の好きな観察地は、麻生 スポーツセンター横にある山口白山公園で、多摩 丘陵を中心に分布するタマノカンアオイが群生し ている。4月中旬に花が盛りとなり、葉の下で隠 れて咲いている。タマノカンアオイの花粉媒介は キノコバエやダンゴムシなどによるが、それを確 かめたく長く座って観察するのだが、なかなか出 合わない。夕方に集まってくるのだと聞いた。確 かに、高尾山ではキノコバエの媒介するコチャル メルソウにキノコバエが寄ってきていたのは、午 後4時ごろであった。ただ、この時間は蚊の襲来 があり、まだ観察する勇気が起きない。
タマノカンアオイ
ここには、ムラサキシキブほかヤブムラサキが 多く生えている。このヤブムラサキは金鉱脈探索 植物として利用されている。植物による鉱脈探し は、今から百年ほど前にイギリスの植物学者のラ ングイィッツが、植物中の金の含有量を測ること で金鉱脈を探せると指摘したことが始まりである。 金の鉱床が確認されている青森県の恐山ではナナ カマド、チシマザサが、鹿児島県菱刈鉱山では ヤブムラサキ、イヌビワ、ウラジロにおいて金の 含有量が高いことがわかった。鹿児島県、島根県 では、特にヤブムラサキが金を多量に含み、金鉱 脈に対する有望な探索植物であることがわかって いるそうだ。土壌を分析するより、植物を分析し たほうがより広い範囲の地下の様子がわかるそう だ。 ヤブムラサキに蓄積された金の含有量は、 金鉱脈から500m~1km以上離れたところでも比 較的高い数値を示すという。ヤブムラサキのよう な金を集積する植物には, 5/100000000(一億分の 五)ほどの金が含まれているそうだ。
ヤブムラサキ
わがマンションの南側に、小高い茶臼山がある。 先日の散策時に、ご案内した所だが、ヤマテリハ ノイバラの白い花、シラカシ、アラカシ、ウラジ ロガシ、アワブキ、タブノキなど、種々の樹木が 生えている。居間から、四季折々の樹々のいろど りを楽しめる。春の新緑、ヤマザクラの花、秋の 紅葉、冬の雪景色、緑いっぱいの眺めに満足して いる。新百合ヶ丘はなかなかよいところである。
ベランダから茶臼山の眺め
( 文と写真:山田 隆彦 )
都会的立体空間と里山をつなぐ みどりの魅力
小田急線「新百合ヶ丘」駅南口。眼前には広い遊歩 道が緑を従えて、近代的なビルの群を貫いています。 中央に佇むのはこの地域のシンボル、ユリの花を掲げ るブロンズの彫刻です。
駅南口のシンボルの彫刻
この日はエリア内にお住まいの“スミレ博士”こと山 田隆彦先生に、緑豊かな地元をご案内いただくフット パスです。さっそく中央のペデストリアンデッキを右 にとると、遊歩道には大小の灌木が植え込まれた水路 状の緑地が。行き交う人たちと腰を下ろして寛ぐ人た ち、それぞれが濃くなり始めた緑に溶け込んでいます。
山田先生、立ち止まってさっそく樹木の解説です。 密になるのを避けながら、取り囲む一行。まだスター トしたばかりなのに、この調子では長い遊歩道を渡り 切るまでにどれくらいの時間がかかるやら。両脇には 商業ビルやホテル、大学などが建ち並び、見下ろせば 尻手黒川線が街路樹の葉陰の下を通ります。
駅前遊歩道の緑スペース(田邊)
遊歩道の樹木も可愛らしい花を付けて
このエリアは山林の割合が60%超という起伏の ある椀状の丘陵地で、新百合ヶ丘駅が開業したの は1974年。地域住民と行政一体の駅周辺開発計画 や小田急電鉄のまちづくり構想も功を奏し、1998 年には都市景観大賞を受賞。今では映画や音楽大 学、川崎市アートセンターなど、駅周辺に芸術文 化関係の施設が集まる「緑あふれる芸術の街」と なっています。
駅南口周辺の都会的な緑の展開を観察した後、 深い木立に囲まれたグラウンドへの斜面を下り、 雑木林のある山口白山公園へ。途中、「新百合ヶ 丘駅周辺景観計画特定地区・都市景観形成地区」 のプレートが。公園の階段を住宅街に向かってさ らに下ると、そこはなんと鎌倉街道。「山口谷戸 の石塔群」も刈り込まれたサツキに囲まれて、道 往く人を見守っているようです。
新百合ヶ丘といえば、アメニティ・タウンとし て緑の生垣や街路樹が美しい山口台の街並みが知 られています。環境保全委員会が組織され、積極 的にまちづくりに取り組んでいる結果なのです。
山口白山公園の雑木林
住宅街を抜けて、市民農園ののどかな光景を眺 めながら歩く麻生川も魅力です。有名な桜並木も 今年は開花が早く、川面には花筏の名残が少々。 それでも、擁壁に群れ咲くヒメツルソバやペラペ ラヨメナの愛らしい小花が印象的でした。
ヒメツルソバ
パラペラヨメナ
アメリカスミレサイシン
橋を渡って、川に添って走る世田谷街道へ。ここか ら柿生方向に歩き、修廣寺へ。15世紀初めに開創され た禅寺で、石段を登った境内の奥の尾根道に雑木林が 広がります。木漏れ日を受けた小径の両側には、可憐 なチゴユリ、キンランも! 多摩地域特有のタマノカ ンアオイの群生には、一同歓喜の声。葉っぱをそっと めくると、根元の土の中から覗くように海老茶色の花 を付けています。ここは地元の有志たちによって保護 管理されているそうで、地域の原風景を残す気概を感 じたことでした。
さて、新百合ヶ丘駅周辺でお昼をということに なり、駅北口近くの「リリーズ バイ プロメティ ー」へ。農家のシェフがつくる野菜中心の農家レ ストランです。昨年のフットパスで訪れた、岡上 で自家栽培するブドウのワインも少々いただきな がらのランチは、午後の英気も養ってくれました。
食後、レストラン前(田邊)
まちづくりが取り組む里山・里地の残す緑と新 しく配置する緑、進化するみどり環境を体感でき たフットパスでした。
修廣寺裏の雑木林
キンラン
チゴユリ
修廣寺からの尾根道(田邊)
(文と写真:横山 禎子)