[ 講師:浅黄美彦]
観光地、門前町、漁師町、遠足の地など様々な顔を持つ江ノ島を楽しむ
10月22日(土) 天気:曇参加者:10名
小田急江ノ島線「片瀬江ノ島」駅前に午前10時集合。2020年に改築されたばかりの駅舎は、1929年の開業当初に建てた竜宮城風の外観を継承して旅心をくすぐります、早速駅舎の前で記念撮影(集合場所がいいとワクワク感が高まるのかもしれません)
小田急片瀬江ノ島駅前にて記念撮影
<片瀬江ノ島駅からカトリック片瀬教会> 和風の教会とそれに至る道(パス)。
最初に訪ねるのは、「カトリック片瀬教会」。片瀬江ノ島駅から北へ歩くと旧片瀬村の山本家による昭和初期の別荘分譲地。そこを5分ほど歩くと、「境川」の畔に和風の聖堂があります。
カトリック片瀬教会外観
教会の創始者・元海軍少将山本信次郎氏が、1939年日中戦争下に建てた教会です。格天井とフレスコ画が併存している不思議な内部空間に魅せられます。
教会の内部
川沿いの心地よい遊歩道を河口まで下ります。町田市相原の源流から江ノ島に流れ込む「境川」の流路を体感したような気分です。
<江ノ島弁天橋から湘南港ヨットハウス> 波打つ屋根の現代建築を訪ねる。
「江ノ島弁天橋」を渡るといよいよ「江ノ島」。
青銅の鳥居をくぐり、まっすぐに参道を進めば王道の江ノ島観光となります。今回は少し寄り道して島の北端にあるヨットハーバーを訪ねてみました。2014年に改築した「湘南港ヨットハウス」は、波打つようなシンボリックな屋根をもつ現代建築です。東京オリンピックのセーリング競技の拠点でもありました。内と外が曖昧な2階のスペースからカッコイイ階段を上ると、津波避難施設を兼ねた屋上でした。
中津宮から見た湘南港ヨットハウス
湘南港ヨットハウスの内部
<湘南港ヨットハウスから集落の道> 集落の細道と路地を歩く。
ヨットハーバーの真っ白い透明感のある現代建築から、島の北側の崖下にある集落の細道を参道に向かって歩く。漁村の集落構造が残る島の日常生活を感じることができる道を歩くのも悪くない。細道から崖に向かって延びる路地は迷路のようでした。
<弁財天仲見世通りから江ノ島神社、サムエル・コッキング苑> 観光地を歩く。
さてさて、片瀬江ノ島駅から寄り道を重ね、「弁財天仲見世通り」の入口「青銅の鳥居」にたどり着く。参道の店で求めた女夫(めおと)饅頭を食べ歩きしながら、さらりと王道の観光地を流し、脇にある伊東忠太設計の大正期に建てられた「児玉神社」を見る予定でしたが、残念ながら工事中で断念。
気を取り直して坂道を上り「サムエル・コッキング苑」を目指します。
島のてっぺん、本来ならば神聖な場所のような気もしますが、そこになにゆえ洋風庭園があるのかという素朴な疑問に、「明治初期、グラバーのような武器商人が巨万の富を得て、神仏習合の解体でゆれる神社から土地を取得し、庭園付きの大別荘をつくる」という容赦のない解説が資料館の映像で答えてくれました。
江ノ島集落の道
シーキャンドル(展望台)からの眺望境川河口あたり
昼食はサムエル・コッキング苑内でのお弁当組と、海の見える「海花亭」で名物のシラスかき揚げ丼のグループに分かれて。
午後は「奥津宮」でお参りし、「稚児が淵」に下りる石段からの富士山の眺めを堪能しつつ、江ノ島の最深部「岩屋」へ。初めての方、小学生の遠足以来半世紀ぶりの方などさまざまでしたが、結構楽しんでいただけたようでした。フットパスコースに観光地の王道の場所を入れるのも悪くないという感想もいただき、解散としました。
(文と写真:浅黄美彦)
見晴亭からの富士山 江ノ島の岩屋
グルッと江ノ島を巡って
小田急線「片瀬江ノ島」駅を出ると,駅前を「境川」が流れています。この境川は町田市相原辺りに源流があると説明があり、「あの町田市と相模原市の境を流れている川が……」と、元町田市民の私は見慣れた景色を思い浮かべ、江ノ島を身近に感じたことでした。
午前中は主に建物(木造和風造りの教会や「湘南港ヨットハウス」など)を、午後は観光地としての江ノ島(江島神社群や「サムエル・コッキング苑」、展望台など)を巡りました。
コッキング苑では明治の頃の異国風の花壇遺稿が保存され、また源頼朝が寄進したと伝わる鳥居のある3つの「江島神社群」の1つが放送中の大河ドラマにも関連するからか、若い人から家族連れまで予想以上の賑わいでした。
当日は明るい湘南のイメージと違って、日が差さず海風が強い一日でした。そんな中で賑やかで大勢が集まっている場所が。なんとそれまで気づかなかったのですが、「富士山」が霞んで見えるのです。やはり富士山って特別ですね! この富士山に見守られながら、潮風が香る江の島をグル
ッと楽しみました。
(文:新納清子)
フットパス専門家講座
生田緑地から明治大学登戸研究所資料館へ
[ 講師:高見澤邦郎]
進化する田園地帯を歩き戦後の遺物に想いをはせる
3月5日(土) 天気:晴参加者:11名
勾配になっているマンサード屋根の駅舎は、ご一緒した浅黄美彦さん(今回も建築の解説を依頼)によれば、「北口駅舎(1927年につくられ最近改修)に倣って改築されたばかり」だそうです。南北にレトロモダンな駅舎が揃ったわけですね。
小田急線向ヶ丘遊園駅南口駅舎(写真:浅黄)
駅から15分ほど歩いて「生田緑地ビジターセンター」に到着。展示をちょっと見て枡形山へ。木々の名前を確かめながら急坂をゆっくり登って広場に到着、展望台へ上りました(エレベータで!!)。良い天気でしたので西に富士山、東に筑波山の展望を期待しましたが、春一番とかで霞んでおり、新宿の超高層ビル群もおぼろ・・・・、残念。
枡形山の広場にて(写真:田邊)
中央広場に下って、昼過ぎに西口広場再集合と決め暫時解散。何人かは「民家園」を散策しつつ、移築された白川郷民家でお蕎麦の昼食。
合掌造り家屋の蕎麦屋で昼食
岡本太郎美術館/西口広場
「岡本太郎美術館」前庭の広場に再集合した後、ゴルフ場に沿って進み(少し降りて、また少し登って)、「明治大学生田キャンパス」正門に到着。
明治大学生田キャンパス正面(写真:田邊)
ここは敗戦まで「陸軍登戸研究所」でしたが、明治大学が1951年にこの土地を取得し、理工学部・農学部を開設(校舎のいくつかは分離派*の建築家であり茶室の研究者としても知られた堀口捨己の設計)。
構内に一部残っていた戦時の施設が順次取り壊される中で、その記憶を残すべきとの声が高校生も含む地域住民からあがり、2010年に「明治大学平和教育登戸研究所資料館」として開館されることに。風船爆弾、偽札製造など当時の資料が展示解説されていて、種々の思いを抱かせます。
*分離派:1920年、東京帝大卒の堀口・山田など若き建築家6人がコンドル先生以来の西洋建築中心の教育を否定。世紀末のウィーンに勃興したセセッションを学び、新たな建築を求める<分離派建築会>を結成した。
明大登戸研究所資料館
明大の南通用門を出て少し行くと長沢浄水場(これまた分離派建築家の旗手だった山田守の設計/川崎市と東京都の浄水施設が共存)。
ここへは、相模川の水が津久井湖から多摩ニュータウンの尾根導管を経て来ています(笑い話:小山田の鶴見川源流の池にはこの導管からの漏水も流れ込んでいる?)。
長沢浄水場(写真:田邊)
浄水場の脇を通って今日最後の目的地、作家の「庄野潤三旧宅」の前へとたどり着きました。
庄野は1963年、畑と雑木林の山に一軒家を建てて「山の上の家」と名付け、東京練馬から移り住んだのです。『夕べの雲』など後期の数々の名作を書き、ここで生涯を終えることに(鶴川に住む河上徹太郎との交流も麗しく)。偶々長男の龍也さん(小説では明夫)が外出されるところで、言葉を交わすこともできました。
さてこれで本日の約10キロのフットパスも終了。
皆さん、三々五々、生田駅への道を下りました。
( 文と写真の一部:高見澤邦郎)
山の上の家(庄野潤三旧宅)
「登戸研究所資料館」を見学して
この資料館は、かねてから見学したいと思っていた場所です。風船爆弾がなぜ誕生しアメリカまで飛んだのか知りたかったので。
ところで夫は那覇生まれで、8歳のころ、米軍の攻撃を前に80km先の山原(ヤンバル)に疎開し、途中、ガマ(洞窟)で休んだり日本軍のトラックに乗せてもらったりしたそうです。そのくらいのことしか話してくれていませんが……(他方、戦後の母親たちの逞しい暮らしぶりはよく話してくれました)。漸く那覇に戻れたのは6年後だったとか……。幸いに家族はみな無事で。
夫は明治大学の卒業生ですが、自分の体験を思い出すので資料館には行きたくなかったのでしょう。ですので、私にとっては初めての見学の機会となりました。風船爆弾が数百個も米国本土に到着し、細菌兵器を積む計画もあったことを知り、またその他の展示品を見学して、このような歴史は、忘れたくても忘れてはいけないと思ったところです。
( 文:名城千穂)
麻布・六本木の昭和モダン
[講師:浅黄美彦 塩澤 珠江]
変貌する飯倉・麻布台あたりを中心に
都心部のフットパスを歩く
1月 9 日(日)天気:晴 参加者: 10 名
今回のフットパスは、「我善坊谷」を中心とした飯倉・麻布台の都心部を歩きました。 折しも「虎ノ門・麻布台再開発」が工事中で、スリバチ地形の名所のひとつが失われつつあり、このまちの魅力や記憶を伝えたいという思いから、二人の講師が異なる視点からこのまちを案内してみようという企画です。
塩澤さんは、生活者の視点から、昭和
24 年から38 年間飯倉に住んでいた思い出の場所を訪ねながら、飯倉・麻布台のまちを語っていただきました。
浅黄からは、1980 年代の初めに「東京のまち研究会」で歩いた麻布台のまち歩きの視点(地形と歴史から都市を読む東京の空間人類学)から、麻布台のことを話させていただきました。
桜田通り歩道橋から見る「我善坊谷」
麻布の台地に東から西へ細長い窪地が「我善坊谷」、江戸時代に組屋敷(下級武士の住まい)として開発された。周囲の高台には大名屋敷が配置され、明治以降高台は、郵政省・外務省施設、華族の邸宅などに転換し、その裏手の窪地に庶民の住宅が立て込むという、典型的な山の手の景観を示していました。我善坊谷の消失風景を眺めることからフットパスをスタートしました。
飯倉の旧居(吉田謙吉邸)を語る塩澤さん
桜田通りから入る路地の奥、崖際にあった「吉田謙吉 12 坪の家」、今はビルの中にある敷地を眺めながら、崖を上って「聖アンデレ教会」に行ったこと、職人の家が多かった路地のことなど、飯倉の思い出を聞かせていただきました。
高台と窪地を結ぶのが坂、今回はいくつもの坂を巡りました。その内のひとつ「雁木坂」。塩澤さんからは飼っていたヤギを連れて雁木坂まできたエピソード、私からは昭和初期に近くに住んでいた島崎藤村が、「大東京繁盛記」で雁木坂について書いていたことを話させていただきました。坂の途中、路地に入ったあたりに喫茶店があったと参加者の合田さん。散歩の達人富田均さん、陣内秀信先生も雁木坂の喫茶店に触れていたことを伝えました。現地を歩き語ることで、今はない喫茶店の記憶を留めることができたような気がしました。
「雁木坂」
高台と窪地を結ぶのが坂、今回はいくつもの坂を巡りました。その内のひとつ「雁木坂」。塩澤さんからは飼っていたヤギを連れて雁木坂まできたエピソード、私からは昭和初期に近くに住んでいた島崎藤村が、「大東京繁盛記」で雁木坂について書いていたことを話させていただきました。坂の途中、路地に入ったあたりに喫茶店があったと参加者の合田さん。散歩の達人富田均さん、陣内秀信先生も雁木坂の喫茶店に触れていたことを伝えました。現地を歩き語ることで、今はない喫茶店の記憶を留めることができたような気がしました。
麻布永坂の高級住宅地に佇む「高峰秀子・松山善三邸」
外苑東通りを越えて、「狸穴坂」に入る路地を抜けると「藤村旧居跡」、さらに「植木坂」を上ると 「旧ブリヂストン美術館永坂分館」、「旧石橋邸」、「高峰秀子・松山善三邸」と白い建物が続く、高級住宅地を味わうことができます。
「行合坂」を下り、蕎麦の更科三家のある麻布十番で昼食、「布屋太兵衛」で二色蕎麦をいただく。
「和朗フラット(スペイン村)」
午後は東麻布の谷道にある「狸穴公園」から「鼠坂」、「植木坂」を上り外苑東通リに出て西へ進むと伝説の イタリアンレストラン 「 キャンティ」 。その脇の小道を下り突き当りに「和朗フラット」が建っている。台地の中のちょっとした窪地にスペイン村と呼ばれる不思議な一画がある。もともとは大名屋敷で、昭和の初めアメリカ帰りの農業技術者上田文三郎が、西海岸で目にしたコロニアルスタイルに魅せられ、この土地を取得し、大工と相談しながら自らが設計し建てたという。コロニアル風の外観と日本の伝統的な長屋形式のプランのアパートが生まれた。まさに昭和モダンでした。
紀州徳川家屋敷跡に建つ麻布小学校横の「行合坂」を上り六本木一丁目へ。かつての「住友東京別邸」、荷風の「偏奇館」のあった尾根道を東へ歩き、解体中の「ホテルオークラ新館」を残念がりつつ、新しくなったロビーで休み 「汐見坂下」の公開空地でゴールとし解散しました。
(文と写真:浅黄 美彦)
原風景はカケラになれども
1949年、舞台美術家の父 吉田謙吉)が設計した 12 坪の家は、片流れの屋根に赤いペンキ塗りの外壁で、小さな舞台があった。戦前の閉塞感から開放された演劇人や画家、作家たちが毎日集まった。「雁木坂」を登り、郵政省、ソ連大使館を横目に見ながら麻布小学校に通う私はそんな大人たちの間で暮らし、結婚し、娘二人を育てた。
1988年、都市開発の波がおし寄せ、我が家は町田へ。その飯倉を 33 年ぶりに歩いた。「芝給水場(通称水道山)」の崖下に建てたわが家はビルの一角になっていたけれど、水道山はカケラになって残っていた。子どもたちが台所の窓から出入りして、草花をつんだ山。八幡様の盆踊りでは父が太鼓を打った。「聖アンデレ教会」のバザーには外国人のピエロがやってきた。妹は「聖オルバン教会」で挙式。3系統の都電がゴトゴトチンチンと走る飯倉片町の交差点は、登り坂と下り坂が合流する不思議な地形で、脱線事故も起きた。我善坊町に住むお産婆さんを呼びに走り、姉弟たち 4 人をとりあげてもらった。カケラが次々と語りかけてくる。
謙吉手描きの引っ越し挨拶状
水道山も描かれている。
(文:塩澤珠江)
成城学園と玉川学園
[講師:高見澤邦郎]
小原國芳が種を蒔き育んだ
二つの住宅地を訪ねる
12月 5 日(日) 天気:晴 参加者: 20 名
小田急線成城学園前駅から南に数分、長崎の「二十六聖人殉教記念館」を設計した今井兼次による教会へ。日曜ミサ中だったので見学はせずに西に歩き、「こもれびの庭市民緑地」へ向かいました。世田谷区は土地所有者から委託を受けて公開する市民緑地制度を活用し、多くの緑地を整備していますが、ここはその代表例です。
小原國芳(1887 1977) は鹿児島県の出身。苦学して京大を卒業し教師となり、時が経って成城高等学校の校長に就任しました。 1926 年、砧村に校舎を移すとき、借金して取得した土地の一部を分譲地として売り出してその収益で学校建設費をまかなうという、デベロッパー的センスを発揮しました。しかし成城での学校経営に限界を感じ、多摩川を越えた町田に、成城と同じく借金&宅地分譲で資金を調達し、理想とする「全人教育」を実践する場として玉川学園を創設したのです。
今回は、この、小原がつくった二つの住宅地を歩いて、それぞれの町並みを見つつ両者の違いも観察しようとの意図のフットパスです。
「成城カトリック教会」
1955 年今井兼次設計
小田急線成城学園前駅から南に数分、長崎の「二十六聖人殉教記念館」を設計した今井兼次による教会へ。日曜ミサ中だったので見学はせずに西に歩き、「こもれびの庭市民緑地」へ向かいました。世田谷区は土地所有者から委託を受けて公開する市民緑地制度を活用し、多くの緑地を整備していますが、ここはその代表例です。
のびやかな「成城三丁目こもれびの庭市民緑地」
成城の住宅地は武蔵野台地上の平坦地にありますが、西の野川、東の仙川に向かって崖(ハケ)が落ち込む地形。野川のハケに向かう「どんぐり坂」を下り、「なかんだの坂」を登って再び台地上に。北に進み小田急線トンネルの上にある「アグリス成城」という名の貸し農園の脇を通りました。賃料が高いせいか以前の賑わいはない様子。その先の「旧山田家住宅」の庭から崖線の「みついけ緑地(非公開)」を覗いて東に折れ、「旧猪俣邸」へ。吉田五十八設計の近代数寄屋と庭園を見学。
アメリカ風の「旧山田家住宅」
「旧猪俣邸」
(財)世田谷トラストまちづくりが運営
このあたりから成城学園の正門へ向かう道が「小原通り」でちょうど銀杏の黄葉が見頃でした。直行する駅前からの桜並木が「澤柳通り」。このあたりがこの街のハイライトでしょう。
「緑陰館(柳田國男邸跡)」、そして道路の向かいの「丹下健三邸跡」を通り学園正門へ。学園へは入らず駅へと向かい、午前の部は終了しました12 時ジャスト)。
「各自昼食後の13 時半に玉川学園前で再集合」と約し、一旦解散。
「小原通り」銀杏の黄葉が見事
午後の部はまず、新装なった「玉川学園コミュ二ティセンター」の会議室で、成城と玉川学園住宅地の資料を配り 30 分ほどお話(高見澤が)。「台地とハケの成城、谷戸と丘の玉川という地形の差違、そして戦前に半分ほどは家が建った成城と、土地は売れたが戦後まで人はあまり住んでいなかった玉川という歴史の差違、これらが今日の街の様相を大きく異ならせていると思います」と。
さて5 分ほど歩いたところの、子ども広場・ディケア・集会所・保育所などが集まる高台へ。これらは、 1950 年代の木造平屋都営住宅が建替えられるに際して、 2000 年前後につくられた施設群です。子どもやお年寄りをはじめ、地域住民の、まさにセンターとなっています。
高台の「3丁目こども広場」は市民が管理している
そこから‘‘鉢巻き道路‘‘(丘の上の方をぐるりと廻る)を歩くと、もと、遠藤周作が、みつはしちかこが、赤川次郎が住んでいたあたりで、丹沢の見えるこの街らしい一帯に。そして林雅子設計のアトリエ住宅を見た後、商店街通り(駅前通り)に降り、踏切を渡って東側に移りました。
こちらにもはちまき道路があり、いくつかのギャラリーもあります。この街には普通の住宅の一部を使って手作りのアクセサリーとか陶芸とかを飾ったり、作家を招いて小さな展覧会をしたりといった「小さなギャラリー」が、そう、 20 ヶ所くらいありましょうか。以前は季節ごとに会期を同じくして開くイベント(例えば「雛めぐり」)があったのですが、オーナーさんの高齢化などで中断しています。
「ギャラリーわおん」さんは道沿いに賑やか
そして鉢巻き道路から谷戸に降りてまた上がって 。少々息が切れましたが「多摩丘陵の谷戸の街、玉川学園」の雰囲気は十分に味わえたと思います。最後は階段(長く住んでいる作家の森村誠一さんが「天国への階段」と名付けた/いや、「地獄への階段」だったかな)を上がり、玉川学園キャンパス入口の玉川池にたどり着いて今日の行程は終了。
最後の登り、天国?への階段
初めて参加された方も加え総勢20 名。コロナが収束に向かいつつある雰囲気もあってか、多くの方々においでいただき、ありがとうございました。
また淺黄さんには、建築の解説などお世話になりました。
(文:高見澤邦郎 写真:高見澤・田邊)
初めてのフットパス
(成城学園と玉川学園)
講師のお一人浅黄さんは、私が学生時代からお世話になっていた、まち歩きの先輩でしたので、声をかけていただき、今回初めて参加いたしました。私は、この3月で定年退職して、4月から学び直しをしていますが、久しぶりに時間をかけてじっくりと、まち歩きをさせていただきました。午前中の成城の住宅地は、木々の成長とともに、どの建物の佇まいも落ち着いていて、「一日中ここにいたい」と思ってしまいます。
玉川学園の住宅地を歩くのは初めてでしたが、「みどりのゆび」の名の通り、ゆびさきの地形をなぞるように、何度も鉢巻き道路のアップダウンを繰り返しました。
目の前の緑豊かな住宅地と、坂を見下ろしながら見える遠くの景色を交互に見比べていましたが、なかでも、個人のお宅の前に設置されている「近所の本棚」は、ひらかれた街の象徴のようで、それぞれ工夫された佇まいは、写真を撮らずにいられませんでした。
午前と午後でかなり歩きましたが、皆さんと一緒に話をしながらまち歩きができて、本当に楽しかったです。また、よろしくお願いします。
(文:曽我浩)
鶴川駅周辺
能ケ谷・金井・岡上
[講師:浅黄美彦・神谷 由紀子]
新旧の鶴川駅周辺・
秋の岡上とヌーヴォーワイン
11月 21 (日)天気:晴 参加者: 14 名
駅前広場が移動し、新たに駅舎・自由通路ができる小田急線鶴川駅周辺は、工事が始まる直前で空き地が広がっている。そんな駅前を眺めつつ旧「香山園(かごやまえん)」へ。 2017 年に町田市が取得し、こちらも現在都市緑地として整備中でした。明治の書院造の建物(瑞香殿)と池泉回遊式庭園を活かした緑地として 2024 年 には完成するそうです。
旧「香山園」庭園と建物
こんな姿が2024 年には再び見ることができる
「香山園」の西側には神蔵家の分家家屋が点在する。縄文・弥生の能ケ谷遺跡跡であるとともに、中世からの集落の地でもあります。屋敷の背後にある竹林を抜け丘の上に出ると一族のお墓がある。そこからは、鶴見川沿いの岡上の丘陵地が見える。この駅前に鶴川の原風景ともいえる風景が残るのもここならではの魅力です。
新しい鶴川駅は、駅の中から鶴見川や丘陵地の自然が感じられるような空間に生まれ変わるそうです。旧香山園の緑地と既存の旧白洲二郎・正子邸「武相荘」、「可喜庵」、「みんなの古民家」などの魅力的な場所が知られています。今回のフットパスでは、これに加え、「鶴川駅の現代建築」にスポットを当て、歩いてみました。
能ケ谷の丘から坂を下り再び駅に戻り、最初の現代建築「アップル スタジオ フラッツ」 (2005 年竣工 設計 牛田英作 を見る。
緩やかに曲がる道沿いにある建物
その近くには、「和光大学ポプリホール」。
2012 年竣工のホールで図書館などがある公共施設(設計 仙田満 環境デザイン研究所)です。
さらに線路沿いを少し歩くと電車からも見える名物建物 「トラスウォール ハウス」(設計 牛田英作 フィンドレイ) 1993 年竣工。“カタツムリの家”とも呼ばれ親しまれている。現在は東京 R 不動産の仲介により、住宅から播州織の「 tamakiniimi 」の店舗になり、不思議な内部空間を楽しむことができました。参加者のみなさん方の今日一番の興味ある建物であったようです。
「トラスウォールハウス」
金井の「ゼロワンカフェ」で昼食。木倉川の崖沿いを坂を上り、緑に覆われた「金井代官屋敷跡明治の神蔵分家は市指定文化財 」を廻り、再び鶴見川沿いを歩き、線路を越えて川崎市の飛地・岡上へ向かいました。
岡上の新興住宅地は、宅地開発関連法が制定する前の昭和 30 年代半ばの造成地のため、急斜面に家が並び、「壱番坂」から「十番坂」まで、細い坂道がある住宅地です。
そんな住宅地にある「六番坂の家」(
2017 年竣工設計 杉浦伝宗)は、技術と愛情と惜しみない手間をかけて見事に再生した家でもあります。今日は、開催されていたオープンガーデン「季の庭」の原種シクラメンの講習会に参加、斜面を活用した秋バラと紅葉の庭園を見学させていただきました。
「六番坂の家」「季の庭」
岡上の新興住宅地は、宅地開発関連法が制定する前の昭和 30 年代半ばの造成地のため、急斜面に家が並び、「壱番坂」から「十番坂」まで、細い道がある住宅地です。
そんな住宅地にある「六番坂の家」(2017 年竣工設計 杉浦伝宗)は、技術と愛情と惜しみない手間をかけて見事に再生した家でもあります。今日は、開催されていたオープンガーデン「季の庭」の原種シクラメンの講習会に参加、斜面を活用した秋バラと紅葉の庭園を見学させていただきました。
いよいよこの日のテーマ「岡上の蔵ワイン」をいただくために、岡上の旧家、山田邸へ向かいました。途中に旧家の跡地を集合住宅とした「 tetto」( 2015 年竣工 設計 salhaus )を眺め、緑に覆われた岡上の小路を歩きました。素敵な場所を繋ぐ小路の存在が鶴川駅周辺のフットパスコースの魅力を高めてくれるように思いました。
歩き疲れたあとのヌーヴォーワイン、美味しくいただきました。
ワインで乾杯:ワインは自家栽培したブドウで醸造
(文と写真:浅黄美彦)
鶴川はテーマパーク!
56 年後に鶴川駅が東側と岡上側に広がり、商店街も増えて拡張するのをご存じですか?それに伴って今、鶴川と岡上が次第に繋がってきて駅の周りがとても面白くなっています!
今回はその岡上側の魅力を探求しながら歩きました。
岡上は、いまだ残る田園と昔道、乱開発による面白い家々と坂道、民度の高い町民と有名な建築家たちの創った家屋や店舗が顕著な非常に個性的な地域です。最近、カタツムリ型の民家を利用した「 tamaki niime 」のエスニックファッションの店や隠れ家的蔵ワインの「 Carna Esto 」、季節のいい時にオープンガーデンを開催する「季の庭」など洒落た拠点ができました。
近い将来、この岡上と鶴川、そして玉川学園までの拠点をきちんと整備すれば鶴川周辺が半日から 1 日を楽しめる新しいテーマパークになると期待しています。新しいお店なども増えて住みよい地域になることでしょう。楽しみですね。
SDGsの時代となり、今、町田市は市内に残る多くの緑を経済的な資源にしようとしています。といっても、昔のように開発をしたり、箱物を作ったりするというのではなく、町田市に広がる緑や自然を活かしてもっと楽しめるような企画を考案しています。その一つが鶴川です。岡上と鶴川の間にもっと一体感が生まれると思われます。
(文:神谷由紀子)
蔵ワイン:内部を醸造所とショップに改造