•  フットパス活動の記録

フットパス専門家講座 八王子の湯殿川流域フットパス
2023.05.30

[ 講師:古街道研究家宮田 太郎 ]

中世武士団・横山党と鎌倉一族の伝説地・古道を探索する


5月30日(火) 天気:晴参加者:12名



 今回は八王子市域でも高尾に近い「狭間(はざま)町」や「館(たて)町」の境を西から東に流れて南浅川に注ぐ「湯殿川(ゆどのがわ)」流域の歴史ロマンをテーマにしました。
 我がNPOみどりのゆびとはフットパス仲間として馴染みがある山形県の長井市ですが、近くに月山・羽黒山・湯殿山の出羽三山信仰の聖地があることは皆さんも知っている、あるいは聞いたことがあるのではないかと思います。その長井市も、八王子の横山党という鎌倉時代初期の武士団の跡地を継いだ長井氏が関わっていることは、あまり知られていないのかもしれません。
 今回はこの湯殿川に沿う丘陵を東の片倉城址(ここも長井氏の居城)方向に進み、途中の和田というバス停(片倉駅行き)まで、山林や畑が残る丘陵伝いに丘を含む約7kmをコースとして歩きました。


八王子、湯殿川の上流「上館親水公園」にて

 当日はJR「高尾」駅前に10時に集合し、駅北側の廿里砦跡(とどりとりであと:現在の森林総合研究所一帯)を眼前に見ながら、駅南側の古刹「大光寺(高尾山薬王院の本坊建物を移した本堂がある)」から初沢城址の下の高乗寺入口に進みました。この「高乗」という寺の名前も、横山党の滅亡後に大江広元という鎌倉幕府の重臣の一族である長井氏が遺領に入り、室町時代初期の子孫が片倉城主となったそうで、その人・長井(永井)高乗が創建したことからこの寺名がついたようです。
 その先には、前・天皇陛下ご夫妻も来られた
「みころも霊堂」と、隣接する「高尾天神社」に日本一の大きさの菅原道真像があります。この道真像は、急な階段を上らなくては近づけないので、ほとんどの方が階段下から仰ぎ見ましたが、作者は意外にも、江戸日本橋の銅製の麒麟像や獅子像、多摩市の聖蹟記念館の明治天皇騎馬像を製作した渡辺長男(おさお)氏で、大正天皇の御陵が決定した際に建立が計画されたものの関東大震災で一旦頓挫し、放置された時期を経て昭和11年頃に私費や寄付金を費やして完成したものだそうです。
 その先は、狭間の台地上にある大型スーパーでの昼食に向かいましたが、途中で車の往来の多い町田街道を越えました。この街道は、ずっと先の町田の商店街に続きますが、その原型である旧町田街道は、実は鎌倉時代の「鎌倉街道山ノ道」であり、秩父地方と原町田を結ぶ中世の大街道でした。その旧道は今は静かな住宅街の道になっています。尾根上にあるその旧道に出た時、ご参加の皆さんに向かって、「みなさん、ここは高尾駅にも近い場所ですが、この道が町田の駅前の小田急デパート脇の第一踏切に続いていますので、どうでしょう、今日はこの道の探索に変更して町田駅前まで行きましょうか~!」と話すと、一斉に「え~!」とか「遠すぎ~」とか笑いながらもはるか先の町田を見ている目に変わっていたのが印象的でした。
 川沿いには、横山党が平安時代末期に源氏の東北遠征に加わった際に奥州から持ち帰ったと伝わる、神秘的で美しい大日如来像が古いお寺の堂内にあります。また、鎌倉一族の権五郎景正を祀る御霊神社があり、戦国時代の小田原北条氏照の家臣で八王子城で討ち死にした近藤出羽守の館城(浄泉寺城)もあります。


親水公園から湯殿川の御霊神社に向かいます



鎌倉権五郎を祀る御霊神社,アオバズクが生息していてビックリ

 そもそも湯殿川の名前をここに移した?その本当の歴史はどのようなものだったのか…という謎解きのような思いが私の中にずっとあり、皆さんと歩きながら、そんな話もしながら、楽しく景色の良い丘の上の森や畑の道を探索しました。

 その湯殿川由来の謎を解くヒントは、およそ四つーー①源氏に従って出羽国まで遠征した鎌倉権五郎が出羽三山に立ち寄り戦勝を祈願。その親戚にあたる有名な梶原景時(母は横山党で元八王子に故郷がある)が、後に当地の川に名前を移した。②横山党が奥州での戦乱に出陣した際に、出羽三山の神域から大日如来を持ち帰った伝説があるが、それこそが真実である。③鎌倉~室町時代に活躍した大江氏族の長井氏が、出羽国の置賜郡に領地を持ったので、当地方の一族にも伝わった。④戦国時代の近藤出羽守が出羽国との縁を持ったことで、この名前が当地方の川にも付いたーーなどが考えられるのでは…とお話ししました。
 もちろんこれらの内のいずれが正しいのかは不明ですが、古い中世武士の時代の話なので、参加の皆さんにはちょっと難しい話になったかもと思いつつでもありました。
 また一帯が古代の馬牧があった?=平安時代の延喜9年(909年)の朝廷の直轄牧の記録に見える「立野牧」と「館(たて)町」の地名の関係性のロマンもあり、今にも馬が飛び出してきそうな丘の上の小径を歩けたことは、貴重な体験だったかとも思います。


古代の馬牧(立野牧?)があったかもしれない丘はとてものどかな場所

 また高台の南側で建設中の圏央道バイパスを眺めた際には、遠く御殿峠や野猿峠まで見える雄大な景色に、皆さん一様に目を細めつつ展望を楽しんでおられたようでした。


森を抜けた先の高台から見えたのは
「圏央道バイパスの工事現場」でした



何とも贅沢なフットパスでした




 今回歩いたのは、高尾山の麓に源を発し、八王子市の西部を東に流れて多摩川につながる湯殿川(ゆどのがわ)という小河川の流域です。高い段丘崖に画された谷間のようなところですが、頂いたマップによると古くから多くの街道が交錯する交通の要地であったようです。現在もJRや京王線に近くて都市化が著しいですが、周囲の山々や丘陵地はほとんどが鎌倉武士団や戦国北条氏などにより城塞化された歴史があります。
 前日は空模様を心配しましたが、当日は雨上がりの爽やかな空気の下での景観の中を歩くことができました。宮田先生の該博な知識に基づく解説を聞いていると、ちょっとした地形の変化や細い道も歴史的な意味を持ち、想像が一気に鎌倉時代や戦国時代の過去に飛びます。何とも贅沢なフットパスでした。
 今回のテーマである横山党は平安末期から鎌倉時代前期にかけて八王子市・町田市を中心に大きな勢力を誇った武士団で、この付近はその本拠があった場所です。大河ドラマの「鎌倉殿の13人」には含まれませんが、和田義盛の乱に加担して北条義時に滅ぼされたため歴史から姿を消しました。では横山党がこの地に残したものはあるのでしょうか?そもそも「湯殿川」という奇妙な名称は何に由来するのでしょう?また、流域にある「御霊(ごれい)神社」の祭神・鎌倉権五郎景正は東北が舞台であった前九年の役(平安末期)のころの武士ですが、なぜここに伝承が残っているのでしょうか?
 こういった様々な謎に対して宮田先生は大胆な説明を試みます。鍵となるのは、出羽三山湯殿山(ゆどのさん)の大日如来信仰との関係です。前九年の役に従軍した横山党や鎌倉氏一族が信仰を持ち帰り、この地に根付かせたのではないか…。
 最後に訪れた「龍見寺大日堂」の大日如来像(東京都重要文化財)は、直接拝観することはできませんでしたが、端正なお顔は写真からでも何かを語りかけてくるようでした。帰りのバス停の近くにも大日如来と思われる智拳印(ちけんいん)を結んだ古い石仏があり、印象的でした。
(文と写真:森 正隆)


湯殿川親水公園  龍見寺大日堂

2023.05.30 14:59 | 固定リンク | 未分類
フットパス専門家講座
2023.05.20
佃島、月島そして晴海へ/江戸のまち、
明治・大正・昭和初期のまちの変遷をめぐる


[ 講師:浅黄 美彦 ]

江戸のまち佃島、明治・大正の埋立て
地のまち月島、そして昭和の埋立て地
晴海。それぞれのまちの変遷をたどり、
路地・親水堤防・運河沿いを歩きます。


5月20日(土)天気:晴参加者:15名

 
 地下鉄「月島」駅7番出口を出て、西仲通りの東端にある「月島もんじゃ会館」前の広場に集合。まずは、かつての佃川のあった高架下を渡り佃島へ。
 佃島は隅田川河口にあった鉄砲洲の干潟に、百間四方の土地を拝領して造った江戸の漁師町です。
その歴史的なエリアに入る前に、あえて旧市街の外周にある「ライオンズマンション月島タワー」から見ることにしました。この開発では、周辺の路地に合わせて路地状空地を巧みに設けているのが特徴です。新たに造られた路地を抜け、「佃天台地蔵尊」の路地に入ると、その狭さに驚きます。

 
開発によって生まれた路地  佃天台地蔵尊の路地

 ここが典型的な佃島の路地でもあります。
 佃天台地蔵尊の狭い路地を抜けると「波除稲荷神社」、その先には船溜まりがあります。佃天台地蔵尊から旧佃の渡しあたりまでが江戸のまち佃島です。「佃公園」の西端から「佃小橋」、「大川端リバーシティ」を望むビューポイントで早速記念撮影。


佃公園の西端から記念撮

 古い佃島のゲートのような佃小橋へ。赤い欄干を入れて、船溜まり、「釣舟屋沖本」、「住吉神社」とタワーマンションの眺めも佃島を代表する都市風景となっています。
 佃小橋を渡り、佃の渡し方向に少し歩き横道に入ると、佃島の漁師住宅「飯田家住宅」と「佃政」がある。飯田家住宅は大正9年築(関東大震災前)で、漁師の専用住宅町家の構えをよく残す住宅で、400年前の地割と風景を伝える貴重な場所でもあります。
 飯田家住宅横の狭い路地を抜け隅田川の堤防沿いに出ると、佃煮の香りが漂う。「天安」に立ち寄る。
 

飯田家住宅  佃煮屋 天安

 佃島の締めくくりは「住吉神社」。社殿は1870年に再建されたもの。奥の明治末に建築された煉瓦倉庫も見どころのひとつです。今回は二の鳥居の陶製の額をじっくりと眺めました。額の文字は有栖川宮のもの。麻布のフットパスで訪ねた「有栖川宮記念公園」と繋がります。


住吉神社二の鳥居

 「住吉小橋」を渡り旧石川島へ。江戸の人足寄せ場から明治の監獄を経て石川島播磨造船所となる。工場の閉鎖後1979年に三井不動産と旧日本住宅公団が取得し、都心への人口回帰、ウォーターフロント開発、タワーマンションの先駆となる大川端リバーシティ21開発が1986年に着工する。
 1990年代の初めには古き佃島から石川島のポストモダンの超高層が出現し、新たな都市風景が生まれました。
 隅田川テラスを歩き「相生橋」を横に見て清澄通り沿いの肉の「高砂」へ。まち歩きの楽しみ、コロッケの食べ歩きで小腹を満たす。清澄通りを渡ると新佃島。1896年に埋立てられた新佃島は、当初は別荘地で文学者らが集まった割烹旅館「海水館」があった場所として知られています。平らな佃島、月島のなかで唯一小高くなっているのが新佃島の特徴です。


海水館跡

 そろそろ昼時となり、月島の路地をいくつか見ながらもんじゃ焼きの店へ。月島はタワーマンションともんじゃの店ばかりと憂いつつも、たっぷりと歩いたあとのビールともんじゃ焼きはやはり旨い。


もんじゃ焼き店の前で記念撮影

 昼食後は、月島の西仲通りを勝どき方面に歩き、看板建築や長屋と路地を飲み込んだタワーマンションの足元を進み「西仲橋」にたどり着く。土木デザイン賞を受賞したこの橋から、サクラの咲く頃は、月島川の春の花筏が美しいらしい。
 最後は朝潮運河に架かる「黎明橋」を渡り「晴海トリトンスクエア」へ。晴海高層アパートのあった旧日本住宅公団の団地跡地開発地です。運河沿いのトリトンスクエアのガーデンで解散しました。
(文:浅黄 美彦写真:浅黄・田邊)

運河や橋、町の歴史を歩いてもんじゃまで



「みどのゆび」への入会から、待ちに待って3年目にようやく参加することが叶いました。
 参加申し込みの際には事務局の神谷様からも、お久しぶりです!とお声掛けいただいてとても嬉しく思いました。それなのに、当日まさかの集合時間を間違え30分遅刻。ガイドの浅黄様が事前配信くださっていた歩くコースのご案内メールを頼りに、小雨上がりの中、追いかけました。残念ながら、「飯田家旧住宅」はスキップしましたが、佃煮屋さんで無事奇跡?の合流。墨田川沿いの緑地公園を歩いたり、佃島の氏神様、大阪から徳川家康公の御恩により移住された佃島の縁起など、何かの読み物で、私がちょっと見ていたものを深く知ることができました。
 また私は3歳頃からでしょうか、初めて自宅を持った父の庭で花木を育てるための手元用スコップを手に持った記憶があり、それ以来、植物が大好きです。今日はタイサンボクを始めろいろなお花を見、また名前や出自まで教えていただけて、とても有意義な一日となりました。
 途中、伊東豊雄氏の「風の卵」を通り見ながら、コロッケを頬張ったり、趣味の合うお仲間とお話ししながらのそぞろ歩きの楽しいこと。みなさんお優しくて。いつか会の拠点である小野路の活動にも参加したいです。まずは竹林の管理、来春こそはタケノコ!!!の御相伴にあずかりたいものです(笑)。



 話がそれました。佃島の「もんじゃストリート」はコロナ禍明けで満員御礼といった感じ。運良く皆さんで入れることができ、ツナとコーンが口の中でプチプチ弾けるもんじゃを楽しみ、町おこしで始まったもんじゃストリートが、もんじゃといえば佃島を短い年月で不動のものとしたことなどに感嘆いたしました。お店を出たら目前の大きなタワーマンションにびっくり。そんなこの界隈のパワーが人を魅了する魅力なのかしら。
 その後晴海に向かう道中、運河と川、町のつながりを知り、中銀マンションの中庭の小さな滝(人工)で涼み、「晴海トリトンスクエア」のガーデンを散策して帰路につきました。多くの花と歴史を垣間見られて、お江戸散歩楽しかったです。
 わたしは新潟県の真ん中あたりが出身で、自然を生かした公園以外はない? 特に歴史的な事というと「耳取遺跡」という縄文のほんとうに小さな歴史しかないのかな、そんな街で育ちました。
 フットパスを作るにはいろいろ工夫が必要そうですが、いつか自分で一つでも良いからコースを作りたいと思っています。この会を通じて学ばせていただきたいと思っています。今後ともどうか、どうぞよろしくお願い申し上げます。
(文:鈴木 いと子写真:田邊)
2023.05.20 14:29 | 固定リンク | フットパス
他のまちのフットパスをみてみよう 春の海風を感じながらの「鵜原理想郷」
2023.04.22
[ 講師:小林 道正 ]

リアス式海岸が続く千葉勝浦の景勝地 大正ロマン散策


4月22日(土) 天気:曇参加者:6名


 このコースの楽しみは、リアス式海岸の景色を満喫できる「鵜原理想郷」の散策と、市場食堂の海鮮丼を味わうことでしょう。

<鵜原理想郷とは>
 「鵜原理想郷」は、大正時代に別荘地として開発する時に名付けられた海岸台地のことです。分譲に先立って、見晴らしの良い現地で、政治家や実業家の他に、新橋や赤坂から芸者衆を数十人も集めて500人規模の大園遊会を開催したそうです。その当時、外房線は「勝浦駅」までだったのを鴨川方面へ延長し、「鵜原駅」を造らせたことでも、その本気度が伝わってきます。しかし、関東大震災と世界大恐慌のために一大リゾート計画は実現しませんでした。


鵜原理想郷の「大木台」にある「幸せの鐘」の前にて

 「鵜原海岸」が海水浴場として賑わっていたのは、日本の国が高度経済成長期のころですが、今ではその面影もありません。一番の良さは水質が良いことと遠浅の砂浜です。ここで3kmの遠泳を行い、身心を鍛える集団宿泊生活を実施している学校があります。私が勤務していた「東京学芸大学附属小金井小学校」です。現在は1000mに短縮されていますが、男子は赤い褌、女子は水着に腰紐をつけて継続中です。


鵜原理想郷から海中公園を望む

<地層の観察>
 鵜原理想郷の崖には、規則的な縞模様の地層が見られます。火山灰質の砂や溶岩の小石が薄い板状に何枚も重なっています。この地層の中から化石を発見することができます。一つは有孔虫です。数ミリメートルの小さな化石ですが、虫めがねで拡大すると巻き貝のような構造が観察できます。もう一つは生痕化石といって、ウニやゴカイなどの生き物が動き回ったり、穴を掘ったりして棲息していた痕跡です。



 
地層の観察はじっくり時間をかけること

<その他の見どころ>
 鵜原理想郷に隣接して、「勝浦海中公園」と「千葉県立中央博物館分室」/「海の博物館」があります。海中展望塔からはメジナやイシダイなどの天然の魚を見ることができ、博物館では磯の生き物観察や海のクラフトなどを体験できます。

<勝浦朝市>
 300年の歴史がある朝市は早朝から11時頃まで開いています。東京駅9時発の特急「わかしお」に乗ると、「勝浦駅」には10時半に到着するので、できれば新宿発7時頃発の「新宿わかしお」の利用をおすすめします。今回は野菜や干物を売っているお店が何軒か開いていました。


300年の歴史の「かつうら朝市」

 干物屋店先に小さな法螺貝が入った籠が置いてありました。「あげるから持って行ってイイよ」と声をかけられ、「漁の網に入ってくるんだよ。

ボウシュウボラっていって、食べてみれば身が大きくて美味しいよ」。1個108円の値札が付いていましたが、貰える物は遠慮なく貰うことにしました。ちょっと気が引けたので鰺の干物を3枚買うことにしました。お店の人との会話を楽しんでいると、買わなくてもイイものを、ついつい買ってしまいます。

<勝浦港・市場食堂「勝喰(かっくら)」>
 お昼ご飯は勝浦港の市場食堂「勝喰」です。今日のお目当てです。1~2時間待ちが当たり前のお店なので1ヶ月前から予約しておきました。今日のお勧めは「初カツオの刺身定食1,200円」と「勝喰丼1,000円」です。海鮮丼はご飯の上にお刺身が乗っているのが普通ですが、こちらのお店では冷たいお刺身は冷たい状態で食べて貰いたい主義でお皿に盛りつけて出て来ます。カツオの刺身とマグロの「なめろう」が大きなお皿にてんこ盛りでした。写真を見て頂ければ、その圧倒的な豪華さが分かって貰えると思います。


大きな窓から勝浦港を眺めながら昼食

 海の幸にはお酒が付きものですから、地酒の「東灘(あずまなだ)」も注文しました。「西の灘」に対して、「東の灘」として勝浦の海の幸にぴったり合うと説明がありました。端麗ですっきりした飲み心地で美味しかったです。
 勝浦港はカツオの水揚げ量日本一です。港には最新型らしい三重県の漁船が3艘停泊していました。清掃作業をしていた船員さんは東南アジア出身でした。「日本に来て10年くらいになる。お金になるから楽しい。船は15人乗りで近くの海で漁をしている。捕った魚はその日のうちに水揚げする」と、日本語でスラスラと応えてくれました。


勝浦港に停泊していた漁船

鵜原理想郷の夢の跡は今も



 千葉、房総半島は外房、太平洋に突き出た明神岬一帯は2㎞余のリアス式海岸に縁取られ、「鵜原理想郷」と呼ばれています。
海原を見晴るかす「大木台」にはモニュメント「幸せの鐘」が海を背に鈍色に光り、「鵜原島」を望む「毛戸岬」、断崖絶壁の「日鳳岬」、広い眺望が楽しめる「黄昏の丘」と続いて、「鵜原海岸」は、「日本の渚百選」にも選ばれた景勝地です。
 この人間臭い「理想郷」という名には、関東大震災で挫折した壮大な別荘地分譲というリゾート建設の夢が関係していたことを聞くにつけ、それにしてもなぜ、これまでほぼ当時のままの自然景観が残されているのか? 興味が湧きます。
 三島由起夫が短編「岬にての物語」で描いた「類ない岬の風光、優雅な海岸線‥‥」と形容したこの地を訪れ愛した画家や文人達は、世に紹介する労をとらず、知人にさえ漏らすまいとつとめている人さえあったとされていますが、案外そんなことも功を奏したのではと、勝手に想像しますが。
 さて、大木台から東に目を転じると、長く延びた「八幡崎」を背に海中展望塔が浮かんで見えます。このエリア・「勝浦海中公園」には水平線を眺めながら歩く海上道路が架かり、さらにこの夏には敷地内に大規模なレストラン&天然温泉スパがオープンの予定とか。少子化や若者の流出に直面している地元勝浦市の人口流入増加を目指す、これも現代のリゾート建設ではあります。
 木の間隠れに海を見ながら山道を下りると、ふと爽やかな甘い香りが。白い小花をたくさん付けたトベラの木があちこちで香っていて、砂浜近くの足元には白いハマダイコンの群生、ハマエンドウの紫色も目を引きます。初夏にはヤマユリも咲き香るという一帯の緑と前方の荒々しい断崖の対比に、光る海が印象的でした。
( 文と写真:横山 禎子 )



 
マルバウツギの花も ハマエンドウ
2023.04.22 20:54 | 固定リンク | フットパス
フットパス専門家講座 スミレ博士と歩く春の高尾山と植物観察
2023.04.09

[ 講師:日本植物友の会副会長山田 隆彦 ]


スミレの聖地、高尾山の裏道を楽しむ


4月9日(日)天気:晴参加者:16名



 高尾山、休日は特にすごい人出でケーブルに乗るのに長い列ができる。待っておれず、しかたなく1号路を歩いて登ることが度々ある。
 「みどりのゆび」では高尾山は2回目となる。前回同様、混雑をさけて、高尾山口から大垂水までバスを利用し、城山から日蔭沢へ抜ける人の少ないコースを選んだ。
 このルートはスミレの豊富なところでもある。例年、4月10日頃がスミレの見頃であるが、今年は2週間程花期が早く、既に咲き終わったものが多く残念であった。
 高尾山のことを少し話したいと思う。高尾山は都心から50㎞のところにあり、海抜600mである。奈良時代に開創された「高尾山薬王院有喜寺」があり、森が守られて来た。また、暖帯林と温帯林の境目にあることで植物相が豊かである。
 尾根を境に北斜面には、イヌブナを主とする落葉紅葉樹林が発達し、南斜面には暖帯系の常緑広葉樹林のカシ類、ヤブツバキなどが見られる。約1500種の植物が記録されている。高尾山で見つかった植物は約60種あり、スミレでは、タカオスミレ、アカコミヤマスミレ、シロバナヒナスミレがあげられる。


タカオスミレを観察する参加者

 目についた主な植物について触れたいと思う。
ニリンソウキンポウゲ科
 名前は「二輪草」だが、花が2個一緒に咲いていることは少なく、片方が蕾の状態であることが多い。中には3個もつけているものもある。キンポウゲ科には毒草が多いが、このニリンソウの葉は、加熱すれば毒性はなくなるので山菜で楽しめる。ただ、猛毒のトリカブトの葉とよく似ていて、毎年、誤食で事故が起きている。注意が必要である。北海道~九州に広く分布し、林縁や林内、草地にふつうに生える。


ニリンソウ

ニオイタチツボスミレスミレ科
 城山手前の急な登りに数株あった。香りを持ったスミレで、群生していると側を通ったときに甘い匂いがして、その存在がわかる。タチツボスミレとよく似ているが、大株にならず、花数が少ない。花は濃い紫色をして中心部の白色が目立つ。
もう一つの特徴は、花茎や葉柄などにビロード状の毛が生えていることである。また、茎の上についている葉は少し細長い楕円形をしているものが混じる。北海道(西南部)~九州の丘陵地で、明るくすこし乾き気味の林床や林縁に生える。


ニオイタチツボスミレ

アケボノスミレスミレ科
 ニオイタチツボスミレのあった急な登りに点々と見られた。地上茎のないスミレで、葉に先立ってピンク色の花を咲かせる。名前は、花の色を曙の空に連想してつけられた。北海道~九州の山地で林床や林縁に生え、少し乾き気味の林内に多い。


アケボノスミレ

タカオスミレスミレ科
 高尾山で見つかり名前がついたスミレ。ヒカゲスミレの葉の表面がこげ茶色から黒紫色になるもの。ヒカゲスミレの品種となっているが、花期を過ぎると葉の色は消え、緑色になり、ヒカゲスミレと区別はできない。タカオスミレを認めない研究者もいる。せっかく高尾山の名前のついたスミレなので、私はタカオスミレの名前を使っている。


タカオスミレ

フタバアオイウマノスズクサ科
 「京都加茂神社」の葵祭に関連する植物で名前はよく知られている。この葵祭ではフタバアオイの葉を冠や牛車などに飾る。徳川家の「三つ葉葵」は、この葉の図案化からのものである。花は3-5月に、2枚の葉の柄の基部に1個下向きに開く。花弁はなく、3枚ある萼片の上半部は外側に反り返っている。本州~九州の山地に広く分布する。


フタバアオイの花と葉

 高尾山は交通の便もよく、植物の豊富なところ、訪れる人は多いが、比較的安全なので、植物観察にはお勧めのところである。季節を変え種々の花を楽しんでください。(文と写真:山田 隆彦)

わくわく、ドキドキのスミレ観察会



 この度はスミレ観察会に参加させていただき、ありがとうございました。一日であんなにたくさんの種類のスミレに出合えるとは驚きでした。スミレ愛にあふれる山田先生をはじめ、参加者の方方にも、いろいろな植物をたくさん教えていただき、とても楽しく、充実した一日でした。今もニンマリしながら写真を眺め、余韻に浸っております。
◆最初にメモしたのはミヤマキケマン。ムラサキケマンの親戚みたいな花。


ミヤマキケマン

◆ツルには見えないツルカノコソウは、ほんのりピンクや白の小さな花が集まって、かわいい姿でした。
◆エイザンスミレは、最初は特徴的な葉だけ見せてくれて、進んでいくうちに花も見られるようになって、テンションの上げ方が絶妙。花を見たときは嬉しさ倍増でした。
◆這いつくばってクンクンしてみたニオイタチツボスミレ。匂いはわからなかったので、またいつかかいでみたいな。
◆小さくても大きくても、ちゃんと破れていたヤブレガサ。
◆衝撃の雄雌連携プレーで命をつなぐミミガタテンナンショウ。葉も斑入りのようなのがあったりして、いちいち立ち止まりたくなる植物でした。
◆並んで咲いていたマルバスミレ。白い花びらも丸くてかわいかったです。
◆ナツトウダイは面白い形の花が印象的。最初「ナットウダイ(納豆台?)」だと思い込んでおり、途中で「ナツトウダイ(夏灯台)」だとわかって笑っちゃいました。

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ナツトウダイ

◆青空をバックに、ワインレッドの花と黄緑色の新葉が映えていたミツバアケビ。
◆予想外にちっちゃくて、花びらがクルンと丸まったニョイスミレ。
◆最後の方でやっと会えて感動したタカオスミレ。葉が茶色がかっているのはカッコイイですが、これもUVケアなのでしょうか?
◆ヨゴレネコノメ、名前を気の毒がられて、きっとみんなに覚えられていますよね。
 これまでスミレの種類はタチツボスミレしか知らず、違うのもいろいろ覚えてみたいと思っていたところでした。この観察会でいっきに頭の中が飽和状態になりましたが、少しずつ復習して整理・確認中です。でもそんなことしてる間にスミレの花の季節は終わってしまいますね。早くも、また来年の春が楽しみです。
(文:玉置 真理子写真:山田 隆彦)
2023.04.09 19:58 | 固定リンク | フットパス
フットパス専門家講座 多摩丘陵の12古街道フットパス③
2023.03.29

南大沢から多摩境へ、
縄文人がたどった交易の道・古代甲州道


[ 講師:古街道研究家宮田 太郎 ]

八ヶ岳・諏訪地方と繋がっていた祭祀場


3月29日(水) 天気:晴参加者:14名

 前回の「古代甲州道」の続きは、いよいよ、たった一つの小さな峠を越えることで、相模野と武蔵野を簡単に結ぶことが出来た「小山内裏峠」を目指しました。それは北向きの傾斜面(多摩ニュータウン側)において、大栗川の支流・大田川や大栗川に沿って多摩川や武蔵野まで真っ直ぐ下れるという特性があるからこその交通路の拠点だからです。
 今回の集合地である南大沢駅前を出てすぐに、遺跡調査の成果からわかった縄文集落群の分布図を、まず皆さんに見て頂きましたが、一様にびっくりされていたのが印象的でした。
 南大沢駅前のバスターミナルや大型スーパー、商店ビル一帯は、わが国を代表するかつての縄文時代遺跡の濃密なるエリアでした。ところが、どこを探してもそのことを知る解説ボードや案内板が一つもないのはなぜなのでしょうか。
 ーー済成長時代の大開発時には、遺跡の存在をとにかく消し去る風潮があったことは事実です。しかし、今やそれだけの遺跡群があった場所は、かえって何千年も大きな災害にあっていなかった、いわば壊れていない安全地帯であることを証明していることが認識される時代になったはずです。
 それを知れば、ここに暮らす現代の人々の心にも安らぎをもたらし、また土地への愛着が育まれるはずです。しかしながら、未だにその「負の遺産的考え方」のトラウマに支配されているのかと思うと、悲しい気持ちになるのは私だけでしょうか。
 膨大な遺物や調査データを、なぜもっと現代に活かすことができないのか、今と未来だけにしか生きていない現代人が住むエリアになってしまって良いものか…、ここには、開発時代の何かの圧力が残ることの意義は今や何もなく、むしろすでに幻と化しているのではないかーーと、いろいろ考えさせられます。
 さて、駅の西方には「輪舞(りんぶ)歩道橋」という、いわば交差点の上に、四方の道のどこへでも簡単に降りられる円形の歩道橋があり、この上から目の前の丘の瀟洒な南大沢住宅地の建物群を眺め、また「古代東海道の推定位置はあのあたりです!」と、一段低いところを走る線路から手前の尾根へ続く推定路を指さしました。


尾根緑道は戦時中は戦車の試験走行をしたところ
古代には「武相国境線」だったそうです

 さらに西側に進むと「赤石公園」という場所があり、かつてこの一帯が山林地帯だった百年前までは、この「古代甲州道」の峠越え直前の位置に道標代わりの赤い石(多摩川のチャート石か?)が置かれていたとも言われています。
 今では公園の片隅に、床面にタイル材で作られた付近の地図と、失われた赤い石の代わりに置かれた別の石が立てられています。公園を造った当時の設計士や地元の人たちが、たぶん何度も相談して決定したものだと想像するだけで、何だか温かな気持ちが伝わって来る場所となっているのです。
 そして“関東山”と呼ばれ命名由来不詳の最高地点の森(ここが内裏峠の一角)があり、そこを越えると尾根緑道に出ますが、“戦車道路”とも言われたその由来を示した解説ボードがあり、そこで本当に戦時中に戦車はここを走行したのかについて、様々な研究者の見解を自分なりの言葉でお伝えしました。
 さらに尾根緑道を進むと、トンネルとなった線路上あたりの山の中に奇跡的に残った「古代甲州道の推定遺構」があります。ーーといってもこの辺りが整備されることになった際に、公団側の担当者と私がこの道路遺構の保存について相談しました。工事はすでに設計段階を終えていましたが、かろうじて、遊歩道として舗装はされつつも最後の峠を上る傾斜面の地形や道路跡が、そのままの位置に残されたのは幸いなことでした。


これぞ縄文人も奈良時代人も越えた峠に残る「古代甲州道」

 その先、さらに皆さんと進んで、高台から相模野や丹沢など遠くを眺め、また、多摩境駅の駅舎の位置へ下って境川を渡り、相模原市域へと続いていた「片所古道(かたそこどう)」の位置も確認しました。他にも秩父の武将・畠山重忠の別荘があった伝説の丘、今はなくなった小山城跡のこと、古代の窯跡群や平安時代の木器製造場があった場所などの説明もしました。
 遠くに連なって見える雄大な丹沢山系の山々の中でも、ひときわ端の方(西端)にあって、古代東海道を行く人々や大山参詣の人々の目印となった「相模大山」のこと、縄文人たちが冬至の日没を観測するための目安になったと考えられている丹沢最高峰の「蛭(ひる)ヶ岳」の本来の意味などにも触れました。
 正に縄文人たちが、また古代の人々がこの峠越えのたびに、また日々の暮らしの中でとても大切にしてきただろう大いなるパノラマ景観が、今もそこにあるのです。
 フットパスの最後は、八王子から横浜に続いた「絹の道」の「浜見場跡」と最古の古道が眠る谷を上から眺めたり、道志渓谷の上質の鮎で将軍御用達になった「鼻曲がり鮎」を鮎担ぎ人が江戸城へ運んだ「鮎街道」の跡、古代の窯跡が眠る神秘的な「内裏公園」の森と池、そして縄文時代のストーンサークルといわれる復元遺跡「田端環状積石遺構」と続いて回りました。その遺跡のすぐ前の道路付近では、北海道の函館近くから出土した土偶に似た特徴を持つものが出土していることから、かつて縄文時代には北海道までも交流の道が存在した可能性もお話して、この日は終了しました。皆さんもこの峠道に溢れる歴史の豊富さにきっと感動してくださったのではないかと思います。


写真右手に未登録の塚?が見えますか?(鮎街道にて)


多摩境のストーンサークル(田端環状積石遺構)からは、
冬至の日に丹沢の蛭ヶ岳に夕陽が沈む様子が観測できる

(文と写真;宮田 太郎)

小山田内裏峠は八ヶ岳・諏訪地方と多摩地方を結ぶ交易の道だった


 多摩丘陵12古街道フットパスの第3回目、今回は京王相模線「南大沢」駅から「多摩境」駅周辺の「縄文人がたどった交易の道・古代甲州街道」の道を探索しました。
 八ヶ岳・諏訪地方から多摩丘陵を越えるには小山内裏峠が一番容易で、八ヶ岳や諏訪地方から黒曜石、ヒスイ、さらに縄文土器(勝坂式)などが伝えられ、大栗川に沿って東日本最大級の多摩ニュータウン遺跡群が見つかっています。
 小山内裏峠は「小山内裏公園」として整備されていますが、立ち入り禁止のサンクチュアリが大半を占めています。宮田先生によると「自然保護と同時に未発掘の場所の保護(遺跡、古道)のため」でもありますと。
 ここの戦車道(尾根緑道)は相模陸軍造兵廠で製造された戦車の走行テスト用として作られ、戦後しばらくの間、防衛庁が同様な目的でここを使用していました。
 午後は田端環状遺跡を訪ねました。縄文中期から晩期(約5000~2800年前)のいわゆるストーンサークルです。冬至には丹沢の蛭ケ岳山頂に陽が沈むなど宗教的な場であったと。また、この近くには、国内最大級の「南多摩窯業跡群」が見つかっていて、須恵器窯跡、粘土採掘跡や集落跡などの遺跡が発掘され、古代の手工業センター!?ですねと。
 次に、「浜見場」と呼ばれる高台から横浜方面を眺められ、元々の絹の道が通っていた道ですと、現在の絹の道は多摩ニュータウンの開発等で曲げられた道だそうです。
 小山内裏公園の「大田切池」、調節池の造成によって立ち枯れとなった杉の林立、北海道の有名観光地「青い池」と似ていますね。
 桜の満開の季節、天気も良く、気持のよい歴史フットパス、宮田先生の発見した古道など、いつもながらの詳細な資料と楽しいお話でした。

(文と写真:田邊 博仁)


尾根緑道の満開の桜とご参加のみなさま

2023.03.29 19:13 | 固定リンク | 未分類