•  フットパス活動の記録

他のまちのフットパスをみてみよう麻布十番はどんなまち?
2023.07.09
[ 講師:みどりのゆび神谷 由紀子 ]
謎の多い麻布十番から白金台地を深掘りすると

7月9日(日) 天気:曇参加者:12名

前回は麻布十番から六本木など、港区の北側の麻布台地を巡りました。今回は麻布十番から四ノ橋経由で南側の白金台地を歩きました。白金というとセレブの邸宅のあるリッチな地域というイメージがありましたが、行ってみるとむしろ町人を中心とした下町が主体となった、落ち着いたまちでした。もともと麻布地域は南斜面の丘陵地で、白金は主に共有地でした。四代家綱、五代綱吉の時代に江戸城から半径3~4kmにある、麻布、白金の郊外に大名の下屋敷などが置かれ商人町もできました。景観や古川という水運にも恵まれ、昔から自然も人間の生活も豊かだったのでしょう。それが現在も高級な地域のイメージの割にはどことなく丁寧で暖かな人情があって、好感をもたれる理由ではないかと思えます。

今回のコースは仙台坂上から四ノ橋に南下します。かなり面白いのでお勧めです(暑くなければ)。
麻布十番駅→商店街→暗闇坂→阿部 美樹志邸→氷川神社一安藤教会→一本松→仙台坂上→薬園坂→釣堀坂→本村町貝塚→四ノ橋→白金商店街→三光坂→服部ハウス(服部金太郎邸)→聖心女子学園→雷神神社→白金北里商店街(昼食)→明治坂→医科研→港区郷土歴史館→悪水溜→国立科学博物館附属自然教育園→都立庭園美術館→白金台又はJR目黒駅
■麻布の発展は綱吉の「白金御殿」に始まった
「四乃橋」の北側、ちょうどいまのイラン大使館のあたりに江戸幕府の薬草園がありました。綱吉は眺めのよいここが気に入り、「白金御殿」を建築しました。これによって麻布の商店街や古川周辺の開発が進んだのです。薬草園は小石川に移転しました。
■太古は海岸だった(地形図参照):「釣堀坂」、「本村町貝塚」
釣堀坂を下った辺りが入り江で、そこから貝塚のある「本村町住宅2号館」の裏の崖が太古には海岸線であり、この海岸線を降りる坂が「薬園坂」で、浜辺の古川に接するところが「四ノ橋」なのです。
後ろの高台には綱吉の白金御殿、目の前には白金の草原が広がっていました。「四之橋」は江戸時代にピクニックの名所で、浮世絵にも描かれています。日本橋からの距離は約7㎞、徒歩だと約90分。橋の南には茶店や料亭が広がりました。
これが今の白金商店街の始まりです。




麻布十番白金地形図



歌川広重『名所江戸百景 広尾ふる川』(四ノ橋)
1856年(安政3年)

■大名屋敷から芸術的建築物へ:「聖心女子学園」、「東大医科学研究所」
丘陵地であるので山手には大名の下屋敷が多くありましたが、明治以後学校などになりました。聖心女子学園が明治41年に建設されました。正門は建築家ヤン・レツルの設計で、初等科の美しい校舎はアントニン・レイモンドです。



聖心女子学園正門前でみなさまと(写真:田邊)

「東大医科学研究所」は、明治25年に北里柴三郎が設立した「伝染病研究所」が明治39年に現在の場所に移転され、その後東京帝国大学付属になりました。安田講堂と同じ内田祥三の設計で造られたゴシック風の重厚な建物で、隣接する「旧国立公衆衛生院(現在は港区立郷土歴史館)」と共に保全されています。





「東大医科学研究所」正門と「旧国立公衆衛生院」(写真:田邊)

■水源池の跡:「聖心女子学園」・「東大医科研」・「悪水溜」
「東大医科学研究所」の木々の生い茂る窪地にかつて川の水源の池があり、ここから聖心女子学園を通って支流が古川に流れ込んでいました。医科研の西側には医科研によってせき止められた窪みができ、明治時代「悪水溜」と称され付近の下水を地下に浸透させていたそう。今回のウォークで、皆で煉瓦の擁壁がかなり長い範囲で残っているのを見つけたのは大収穫でした!


「白金台の悪水溜」の赤煉瓦の擁壁(写真:田邊)

■白金という地名
現在の「自然教育園」と「東京都庭園美術館」の広大な敷地には、室町時代に「白金長者」の館があったといわれ、その土塁跡が今も残っています。江戸時代には大名下屋敷に、明治時代には陸海軍の火薬庫に、そして大正時代には皇室の御料地となりました。
(文と資料:神谷 由紀子)



安藤教会(写真:横山)



「白金台の悪水溜」と現代のイメージの落差を楽しむ

麻布十番から白金へと今日のコースの概要を聞いたとき、地域の歴史や由緒もきっと華やかなフットパスになると思った。ま、ちょっと古いが「シロガネーゼ」という流行り言葉があったように、グルメやファッションそしてカフェや洋菓子を求めて、あの寅さん風にいえば「粋な姉ちゃんがチャラチャラ歩いてる」そんな街がイメージされた。
「薬園坂」を古川傍に下りるとその南側一帯は、印刷所や町工場が多いところだとの説明を受けた。後日港区のHPを覗いてみたら「白金、誇りの町工場」と自衛隊用の特殊なラッパを造っている工場の写真が載っていたので、このあたりは昔ながらの白金の記憶を残す下町感あふれる場所なんだと、そのイメージの落差が楽しめた。
目黒通りから北西に入ると結構な坂が下っていて、向こう側の高台を目にすることができる。底は悪水溜。スリバチ学会の皆川さんは言う、「この先に谷があるから、下りてまた上る坂になっている。Ⅴ字型の谷ではなくて、スプーンで掬ったようなスリバチ状の谷が東京にはたくさんあるのです」。ここ悪水溜は白金台にある、四方向とも閉じられた一級のスリバチ地形とのこと。「東京23区凸凹地図」には、「旧悪水溜」溜池の名残として煉瓦造の擁壁が残されている。貴重な一級スリバチ地形、と記されている。
「白金台の悪水溜」とつぶやいてみると、それは京極夏彦の妖怪話か、周五郎や周平の哀感あふれる時代世話物か、正太郎の梅安か犯科帳か、何か白金のイメージとは全く違う物語が紡ぎ出されるような思いにとらわれる。(文:岩崎 英邦)



「東京都庭園美術館」にて、お疲れさまでした!(写真:田邊)

2023.07.09 11:52 | 固定リンク | フットパス
農と緑の管理
2023.06.30
小野路里山にお越しください。

 当会の緑地と竹林は、町田市北部の小野路宿と調布市布田五宿を結ぶ、江戸期からの布田道に接しています。道幅が狭いため車が殆ど通らず、騒音と無縁な豊かな自然に恵まれています。
 月1回の管理作業は、この里山を味わいながら行っています。皆さま、昔懐かしい里山を訪ねて、ぜひ散策にお越しください。またご興味あれば、当会作業日のお試し参加も歓迎します。

景観とタケノコ目的で竹林を整備

1月15日(日) 天気:曇 参加者:6名

 昨年9月竹林の管理活用について専門家講義を受け、そのノウハウを活用し竹林管理を強化して来たが、春に向けて一層の整備を進めた。
 枯れた竹や傾いだ竹を伐採し、適当な間隔を確保することで、健全な孟宗竹を育成しタケノコも出易い環境作りに励んだ。

2月26日(日) 天気:曇 参加者:8名

 今回は参加者が多いうえ、チェーンソーや刈払機も活用したので、不要竹伐採や灌木下草刈りの作業が大いに捗った。
 その結果、竹林は今迄とは見違えるほど美しくスッキリした。また切通し付近の整備により、人気ある景観も改善された。

3月19日(日) 天気:晴 参加者:7名

 緑地裏の山地を調査した。10年来ご無沙汰の裏山は倒木多く篠竹も繁って踏み跡すら見えず、ヤブ漕ぎして何とか頂部の小祠に辿り着いた。
 次は竹林に向かい、不要小竹の除去などを進めたので、竹林は広々と見通しが良くなり、気持ち良く整備された状態に仕上がった。

4月16日(日) 天気:曇 参加者:12名

 今日はタケノコ試し掘り。竹林は整備したが、肝心のタケノコが見つからず、探し回って何とか小さいのを含め15本程度掘り出した。
 タケノコは毎年豊凶交互の傾向が強く、昨年豊作の反動か、今年は凶作の模様。また小野路地区は何処でも、貧作との情報も得た。

4月23日(日) 天気:曇時々晴 参加者:23名

 年に一度のタケノコ祭。多くの会員やゲストの参加を得て、必要数のタケノコを確保し、タケノコ入り豚汁を囲んで大いに盛り上がった。
 このアウトド ア・ランチを楽しみにしている方方は多いし、布田道通行者も増えているので、今後とも整備は進めていきたい。

5月7日(日) 天気:雨 管理作業中止

 通常のタケノコが終わった後は、穂先タケノコが採れると聞いたが、凶作年ではタケノコを掘り尽くしており無理と判明した。
 また緑地草刈りは、4月からの道沿い個人刈りにより、当面は急いで草刈りをする必要がないため、5月は完全中止とした。

日常的な環境保全活動

6月18日(日) 天気:晴 参加者:10名

 11日が雨天順延され、布田道へ落ちそうな木枝や枯竹の撤去、オオブタクサ抜去等の緊急課題解決を優先して作業した。
 当面のリスクは排除出来ても、継続して発生する問題につき、今後とも状況を見守りながら適切に対応していく必要がある。

恵泉女学園大学の田植えに参加

6月10日(土) 天気:曇参加者:40名(当会3名+家族)
 新入生を中心とした学部職員あげての田植えに、当会からは会員3名が参加して、楽しみながら体験実践することが出来た。


田植え(写真:恵泉女学園大学)

(文:合田英興)

初めての田植え

 恵泉田圃で、田植えを初めて体験した。緑地奥にある田圃は苗床、うるち米、餅米用の3枚に分けられて美しく並んでいる。先ず苗床田圃で苗取りをした。相当に長い長靴で田圃に入り、苗を取ったら軽く泥をすすぎ、ワラで束ねる作業。やっているうちに体重で足が泥に嵌まっていき不安になる。右足踵から動かそうとした途端、長靴が抜けそうなってバランスが崩れ、ドロンコ第1号となった。
 その後は裸足になり田圃に入った。ヌルッとした感触が足裏で感じられ、田水の冷やっこさが意外に気持ち良かった。長靴より裸足のほうが泥に潜っていかないのも意外であった。
 当会Nさんは今年もお孫さんと参加され、元関係農家のMさんは学生と会話しながら、楽しそうに裸足で作業されていた。アッという間の楽しい一時であった。 (文:新納 清子 )

森林のフィトンチッドは人の心身もリフレッシュ

 3月。今日は気持ちの良い晴天。民家のお庭には色とりどりにツバキ、スイセンやスミレ。布田道に面した作業小屋のある広場では、先月のロウバイに変わり、大木のコブシやレンギョウがお出迎え。この場所はいつ来ても心地良い。
 今日は裏山調査で急傾斜を登る合田さんと別れ、私たち6名は脇道から初めて裏山へ分け入る。気分はワクワク “みどりのゆび探検隊” 。
 木々の根が階段状に張り出ているため、滑らないように気をつけて登ると、小さな古い小屋のある草地に出た。大人でも思わず駆け出したくなる気持ちの良い場所。仲間とヨガやティーパーティなどしたら楽しいことでしょう! と思いながら、合田さんの指示に従い奥の細い道を進むと、大きなカシ?の木のある美しい竹林が続く。さらに道を上りきると、祠のある眺望の良い場所に辿り着いた。
 合田さんと合流後、いつもの竹林まで下って前回の伐採竹の整理と一面の小竹の刈り取り作業。陽当たりの良い広場がつくられた。
 作業帰りにはヤマザクラや満開のヨウコウザクラも見事。この里山を歩く度に自然に魅せられ、楽しみが増えて嬉しい。
 どうぞ皆さま、 森林浴においでください。
(文:松本 美津子)

今年もタケノコ祭がやって来た!

 昨年の9月に、竹林専門家の方のお話を聞いてから、竹を沢山切りました。神谷さんの呼び掛けで参加者が増え仕事もはかどりました。竹林には日がよく射し込み、風もよく通るようになり、サンショウはあちこちから生え、いつの間にかタラの芽も出ています。キンランやタマノカンアオイも静かに咲いています。
 タケノコ祭で嬉しいのは、普段はフットパスでしか会えない人と竹林で会える事です。タケノコ祭はタケノコを掘るのが目的ですが、この日は皆のお楽しみの日でもあります。
 まずはいつもの具がたっぷり入ったタケノコ汁、焼きタケノコ、タケノコの刺身 ( 特製木の芽ソース添え ) 、最近はこれに焼きリンゴが加わりました。今年は干し葡萄入りで、切り分けるとバターとシナモンがほのかに香り、ここでしか味わえない格別の一品で大人気です。
 焚き火では、焼きリンゴの他に除湿消臭に役立つお持ち帰り用の炭を焼きます。松ぼっくりは綺麗に焼け、今度は形がおもしろいレンコンの輪切りでも作る予定。試してみたい物があればお持ちください。一緒に炭を焼きましょう。
 今年はタケノコがあまり採れませんでした。来年は豊作でありますように。
(文:鈴木 由美子)


美しくスッキリした竹林(0206 写真:神谷)

  
タケノコ祭のタケノコ(写真:横山)とキンラン(写真:神谷)







タケノコ祭の楽しみ:
タケノコ汁、焼きタケノコ、
タケノコの刺身、焼きリンゴ
などを楽しむ参加者のみなさ
ま(写真:横山)


タケノコ祭に参加のみなさま(写真:神谷)
フットパス専門家講座
2023.06.25
古代の史跡を訪ね、国分寺崖線の水と緑を楽しむ

[ 講師:髙見澤 邦郞 ]

梅雨の合間の青空に、
僧尼寺&国府の跡をむすんだ一日


6月25日 (日)天気:晴参加者:19名


 集合地の西国分寺駅南口一帯は戦時中に国策で、東芝など工場勤務者用の木造長屋建て<営団住宅>が建てられ、戦後も住まわれていました。老朽化の中で30年ほど前に、交通広場や集合住宅群として再開発の実施へ。また府中街道を隔て、その東側には広大な敷地の<鉄道学園>がありましたが、国鉄の民営化に伴って東京都等に売却され、住宅団地や都立多摩図書館、国分寺市役所(建設中)などに変貌。私(高見澤)もその頃、市のマスタープラン作成を手伝っていたので思い出のある場所です。といったことを駅前で説明後、鉄道学園跡地の大半を占める「都立武蔵国分寺公園」へ。公園の整備中に発掘されたのが8世紀頃につくられた<東山道武蔵路跡>。東山道は近江から陸奥まで800キロほどにわたる官道で、関東では今の群馬・栃木のあたりを東西に通っていました。その足利あたりから武蔵国の国府を目指して80キロほど、南に向かって一直線に12メートルの幅で設けられたのが「武蔵路」。我々も、保存された路の跡を歩いてみました。


鉄道学園時代の桜が武蔵路の中央に
それにしても幅12メートルは広い


発掘時の展示施設の前で一枚

 広大な公園の南側は国分寺崖線に続き、その小径を下ると湧き水の溢れる「真姿の池」や「お鷹の路」に。日曜日なので家族連れで賑わっていました。


自然の中の小径


豊かな湧水

 代々国分寺村の名主だった本多家の敷地と建物が昭和の時代に市に寄付されています。敷地内に整備された<武蔵国分寺跡資料館>を見学。古代のこの一帯の模型や出土した瓦など多くの展示がありました。そのすぐ西にある現在の「国分寺」は江戸時代の建立とされていて、立派な楼門・仁王門・薬師堂などがあります。


旧本多家長屋門の前で記念撮影

 次いで「史跡武蔵国分寺跡・国分寺尼寺跡」へ。この両寺は天平の頃(8世紀なかば)、聖武天皇の詔で建立された全国60ヶ所とされるもののうちの一つです。その後鎌倉時代後期に、新田義貞による分倍河原の戦いに巻き込まれ焼失、以後再建はならなかったとされています。当時の礎石などは以前からよく知られていましたが、近年、調査研究や公園的な整備が進み、見学ができるようになりました。


のびやかな武蔵国分寺・尼寺跡。両寺の間は府中に至る
12メートル幅の<武蔵路>で隔てられていた

 さて尼寺跡から府中街道へ戻り、バスに乗車して10分少々で府中駅に到着。京王線と南北に交差するのが<馬場大門の欅並木>です。徳川家康が馬駆けの二条の道(馬場)とケヤキの並木を大國霊神社に寄進したのが始まりとされています。大正13年に国の天然記念物に指定されましたが、往事には60本以上あった幹周り3メートル以上の古木も、近年のビル化や車の増加で枯れるものも増え、その維持保全に市とボランティア団体が奮闘しているようです。さてここで1時間後に再集合ということにし、ランチタイム。


強い日差しをケヤキの並木が遮ってくれて
一休みする人たちも・・・

 午後は最後の見学。くらやみ祭りで有名な大國霊神社に参拝。そして、発掘調査で分かってきた武蔵国の国衙(こくが/東京都庁のようなもの)と国司館(こくしのやかた/10年程前に廃止された旧東京都知事公館のようなもの)の様子を展示する施設を見て日程を終了。


武蔵国の国衙と国司館の様子を勉強しました

 南武線・武蔵野線の府中本町駅で2時半に解散しました。
 暑い中の約8キロメートル、初めての方も含め多くの皆さんに参加していただきありがとうございました。
(文:髙見澤 邦郞写真:田邊 博仁)

1300年前の遺跡と今日の出来事


 「東山道武蔵路跡」を経由し「国分寺・国分尼寺跡」を見学。その後府中に移動し、「史跡大國魂神社・武蔵国府跡」など約1300年前の史跡に触れる半日でした。いずれも規模が大きく朝廷の意気込みと、当時いかに疫病や天候不順による農作物の不作などに悩まされていたかが感じられました。よくこれらが今も残っているなと感心しました。又公園もよく整備されていてさすが都立。このまま残ってほしいものです。


 ランチタイムにびっくりなことに遭遇。一緒に参加した伊藤さんと昼食にと行ったカレー屋さんの券売機でのこと。一人の大柄な外国人の先客。よく見るとなんとラグビー日本代表キャプテンだった(今もかもしれませんが)リーチマイケルその人だったのです。ここで関西人のおばちゃんなら“マイケル元気”などと話しかけるのかもしれませんが、関東に住んでいるものとしては遠慮して声もかけられず、もちろん写真を一緒に撮るなんて勇気も出ずに無言で待っていると、先にどうぞとばかりに譲ってくれました。その後携帯で連絡を取っていたので家族から持ち帰りを頼まれていたようです。ちなみにマイケルは東芝府中の所属(今はどうか?)なので、この辺りで遭っても何の不思議もありません。私も伊藤さんも身長は180cm近く(今は年齢と共に低くなっていますが)。けっして低い方ではないのですが、さすがにマイケルがでかい。胸板の厚みはすごいの一言。勇気を出していればここに一緒に撮った写真を掲載できるのに。皆さん、こういう時には勇気を出しましょう。
 ところで先を譲ってもらった券売機でカレー券を買ったら、それがなんと弁当券になっていました。私はそれを押した記憶は全くないので、多分マイケルが押していたのが残っていたのではないかと思います。
 もちろん店員に話して店内で食べました。弁当なのでウエットティッシュ付。この件で伊藤さんとの会話も弾み、実に楽しいランチとなりました。
(文;鈴木 弘)
2023.06.25 22:41 | 固定リンク | フットパス
他のまちのフットパスをみてみよう 異国情緒の横浜山手と元町を歩く
2023.06.04
[ 講師:田邊 博仁 ]


山手丘陵の尾根道と坂道を廻り、歴史を活かしたまちづくりを知る


6月4日 (日)天気:快晴参加者:9名


 女子中高生の利用が多く、“乙女の駅”の愛称のある「石川町駅」が今回のフットパスのスタート。目の前の中村川(堀川)が山下居留地と日本人居住地(元町)の境界で、1867(慶應3)年に背後の丘陵地に山手居留地が誕生。洋館、教会、ミッションスクールなどが相次いで立地しました。


石川町駅前の中村川

「大丸谷坂」を上がると、横浜の市街地を見下ろす丘の上の「山手イタリア山庭園」に出ます。
かって、「イタリア領事館(1880~1886)」がおかれていました。フランス瓦の屋根の「ブラフ18番館」と、とんがり屋根の「外交官の家」が横浜市に寄贈され、移築復元されました。水や花壇を幾何学的にデザインした庭園が見事です。


山手イタリア山庭園

 「山手本通り」から「桜道」を経て「山手公園」に出ます。生麦事件(1862(文久2)年)がきっかけで、外国公司団から安心してピクニックや馬の遠乗りが楽しめる場所が欲しいと要望があるも、江戸幕府では具現化せず、1869年(明治2年)に日本政府から貸与された土地が居留民により整備され、1870(明治3)年に「山下公園」が開園しました。「横浜山手・テニス発祥記念館」では4つの日本初の話をお聞きしました。①「日本初の西洋式公園」(1870(明治3)年)②「日本庭球発祥の地」(1876(明治9)年)③ヒマラヤスギが日本で初めて植えられた(1879(明治12)年)。④初代の「君が代」(1870(明治3)年)が日本で初めて演奏された。しかし、洋風の曲調で違和感があり1880(明治13)年に現在の曲へ改定。当時のファッション姿から、テニスは社交の場そのものだったことも知りました。


横浜山手・テニス発祥記念館にて説明していただく

 「山手公園」から「フェリス女学院大学」横の「ブラフ積擁壁」と「市の名木古木のタブノキ」の風情ある道を上がり、再び山手本通りへ出ます。


フェリス女学院横の風情ある道

 「カトリック山手教会」の歴史をお話し、フェリス女学院高校・中学横の汐汲坂を下り元町へ出て、お待ちかねのランチタイムです。


元町にてランチ(yokayo)

 午後は、「元町公園」から。フランス人ジュラールが、1868年頃から船舶向け給水事業や西洋煉瓦の工場を開設、関東大震災(1923年)で損壊。
市は土地の永代借地権を買い取り、1930(昭和5)年に「元町公園」とした。低地には湧水を利用した「ジュラールの水屋敷地下貯水槽」(国登録文化財)が現存。ウォーターガーデンを登り、「山手80番館遺跡」を見学、山手本通りの「エリスマン邸」、「ベーリックホール」の洋館で一休み。


元町公園のウォーターガーデン


元町公園のエリスマン邸

 山手本通り沿いには「山手234番館」。横道へ入り、「ブリキのおもちゃ博物館」「クリスマストイズ」のお店を楽しみ、華麗な洋館の姿をよく残している「山手資料館」を見学。居留地だったころから関東大震災までの横浜や山手に関する資料が展示されています。
 さらに、「港の見える丘公園」「フランス山」「アメリカ山庭園」を歩き、みなとみらい線「元町・中華街駅」にて解散いたしました。


山手資料館

(文と写真:田邊 博仁)

「異国情緒の横浜山手と元町を歩く」に参加して



 今回の舞台となった元町は、1980年頃、ハマトラファッションの中心地で何度か足を運んだ場所です。その影響か?ファッション関係の仕事に就き、直営店を出店した思い出の深い町です。そのような訳で今回のフットパスに大変興味を持って参加しました。
 参加してみて懐かしさに昔を思い起こすのではなく、新しい発見ばかりで大変感激し、楽しい一日となりました。
 遠く「横浜ベイブリッジ」や「みなとみらい21」を望む丘の上からの眺望。日本初の西洋式公園である山手の緑豊かな公園。横浜屈指の高級かつ閑静な大きな住宅。フェリス女学院など歴史あるミッションスクールやカトリック山手教会の建物。外交官の家やエリスマン邸など昭和初期の歴史的な数々の洋館。などなど見所が満載でした。
 もちろん歴史、地理、植物等の豊富な知識に裏付けされたお話を聞きながらです。
 また参加された方々と歩きながら楽しいお話もさせていただきました。
 フットパスの楽しさを満喫しました。NPO法人みどりのゆびの活動に参加し、いろいろなことを経験して見たいと思いました。
(文:伊藤 右学)


イタリヤ山からの眺望(写真:田邊)


エリスマン邸(写真:田邊
2023.06.04 21:05 | 固定リンク | 未分類
フットパス専門家講座 八王子の湯殿川流域フットパス
2023.05.30

[ 講師:古街道研究家宮田 太郎 ]

中世武士団・横山党と鎌倉一族の伝説地・古道を探索する


5月30日(火) 天気:晴参加者:12名



 今回は八王子市域でも高尾に近い「狭間(はざま)町」や「館(たて)町」の境を西から東に流れて南浅川に注ぐ「湯殿川(ゆどのがわ)」流域の歴史ロマンをテーマにしました。
 我がNPOみどりのゆびとはフットパス仲間として馴染みがある山形県の長井市ですが、近くに月山・羽黒山・湯殿山の出羽三山信仰の聖地があることは皆さんも知っている、あるいは聞いたことがあるのではないかと思います。その長井市も、八王子の横山党という鎌倉時代初期の武士団の跡地を継いだ長井氏が関わっていることは、あまり知られていないのかもしれません。
 今回はこの湯殿川に沿う丘陵を東の片倉城址(ここも長井氏の居城)方向に進み、途中の和田というバス停(片倉駅行き)まで、山林や畑が残る丘陵伝いに丘を含む約7kmをコースとして歩きました。


八王子、湯殿川の上流「上館親水公園」にて

 当日はJR「高尾」駅前に10時に集合し、駅北側の廿里砦跡(とどりとりであと:現在の森林総合研究所一帯)を眼前に見ながら、駅南側の古刹「大光寺(高尾山薬王院の本坊建物を移した本堂がある)」から初沢城址の下の高乗寺入口に進みました。この「高乗」という寺の名前も、横山党の滅亡後に大江広元という鎌倉幕府の重臣の一族である長井氏が遺領に入り、室町時代初期の子孫が片倉城主となったそうで、その人・長井(永井)高乗が創建したことからこの寺名がついたようです。
 その先には、前・天皇陛下ご夫妻も来られた
「みころも霊堂」と、隣接する「高尾天神社」に日本一の大きさの菅原道真像があります。この道真像は、急な階段を上らなくては近づけないので、ほとんどの方が階段下から仰ぎ見ましたが、作者は意外にも、江戸日本橋の銅製の麒麟像や獅子像、多摩市の聖蹟記念館の明治天皇騎馬像を製作した渡辺長男(おさお)氏で、大正天皇の御陵が決定した際に建立が計画されたものの関東大震災で一旦頓挫し、放置された時期を経て昭和11年頃に私費や寄付金を費やして完成したものだそうです。
 その先は、狭間の台地上にある大型スーパーでの昼食に向かいましたが、途中で車の往来の多い町田街道を越えました。この街道は、ずっと先の町田の商店街に続きますが、その原型である旧町田街道は、実は鎌倉時代の「鎌倉街道山ノ道」であり、秩父地方と原町田を結ぶ中世の大街道でした。その旧道は今は静かな住宅街の道になっています。尾根上にあるその旧道に出た時、ご参加の皆さんに向かって、「みなさん、ここは高尾駅にも近い場所ですが、この道が町田の駅前の小田急デパート脇の第一踏切に続いていますので、どうでしょう、今日はこの道の探索に変更して町田駅前まで行きましょうか~!」と話すと、一斉に「え~!」とか「遠すぎ~」とか笑いながらもはるか先の町田を見ている目に変わっていたのが印象的でした。
 川沿いには、横山党が平安時代末期に源氏の東北遠征に加わった際に奥州から持ち帰ったと伝わる、神秘的で美しい大日如来像が古いお寺の堂内にあります。また、鎌倉一族の権五郎景正を祀る御霊神社があり、戦国時代の小田原北条氏照の家臣で八王子城で討ち死にした近藤出羽守の館城(浄泉寺城)もあります。


親水公園から湯殿川の御霊神社に向かいます



鎌倉権五郎を祀る御霊神社,アオバズクが生息していてビックリ

 そもそも湯殿川の名前をここに移した?その本当の歴史はどのようなものだったのか…という謎解きのような思いが私の中にずっとあり、皆さんと歩きながら、そんな話もしながら、楽しく景色の良い丘の上の森や畑の道を探索しました。

 その湯殿川由来の謎を解くヒントは、およそ四つーー①源氏に従って出羽国まで遠征した鎌倉権五郎が出羽三山に立ち寄り戦勝を祈願。その親戚にあたる有名な梶原景時(母は横山党で元八王子に故郷がある)が、後に当地の川に名前を移した。②横山党が奥州での戦乱に出陣した際に、出羽三山の神域から大日如来を持ち帰った伝説があるが、それこそが真実である。③鎌倉~室町時代に活躍した大江氏族の長井氏が、出羽国の置賜郡に領地を持ったので、当地方の一族にも伝わった。④戦国時代の近藤出羽守が出羽国との縁を持ったことで、この名前が当地方の川にも付いたーーなどが考えられるのでは…とお話ししました。
 もちろんこれらの内のいずれが正しいのかは不明ですが、古い中世武士の時代の話なので、参加の皆さんにはちょっと難しい話になったかもと思いつつでもありました。
 また一帯が古代の馬牧があった?=平安時代の延喜9年(909年)の朝廷の直轄牧の記録に見える「立野牧」と「館(たて)町」の地名の関係性のロマンもあり、今にも馬が飛び出してきそうな丘の上の小径を歩けたことは、貴重な体験だったかとも思います。


古代の馬牧(立野牧?)があったかもしれない丘はとてものどかな場所

 また高台の南側で建設中の圏央道バイパスを眺めた際には、遠く御殿峠や野猿峠まで見える雄大な景色に、皆さん一様に目を細めつつ展望を楽しんでおられたようでした。


森を抜けた先の高台から見えたのは
「圏央道バイパスの工事現場」でした



何とも贅沢なフットパスでした




 今回歩いたのは、高尾山の麓に源を発し、八王子市の西部を東に流れて多摩川につながる湯殿川(ゆどのがわ)という小河川の流域です。高い段丘崖に画された谷間のようなところですが、頂いたマップによると古くから多くの街道が交錯する交通の要地であったようです。現在もJRや京王線に近くて都市化が著しいですが、周囲の山々や丘陵地はほとんどが鎌倉武士団や戦国北条氏などにより城塞化された歴史があります。
 前日は空模様を心配しましたが、当日は雨上がりの爽やかな空気の下での景観の中を歩くことができました。宮田先生の該博な知識に基づく解説を聞いていると、ちょっとした地形の変化や細い道も歴史的な意味を持ち、想像が一気に鎌倉時代や戦国時代の過去に飛びます。何とも贅沢なフットパスでした。
 今回のテーマである横山党は平安末期から鎌倉時代前期にかけて八王子市・町田市を中心に大きな勢力を誇った武士団で、この付近はその本拠があった場所です。大河ドラマの「鎌倉殿の13人」には含まれませんが、和田義盛の乱に加担して北条義時に滅ぼされたため歴史から姿を消しました。では横山党がこの地に残したものはあるのでしょうか?そもそも「湯殿川」という奇妙な名称は何に由来するのでしょう?また、流域にある「御霊(ごれい)神社」の祭神・鎌倉権五郎景正は東北が舞台であった前九年の役(平安末期)のころの武士ですが、なぜここに伝承が残っているのでしょうか?
 こういった様々な謎に対して宮田先生は大胆な説明を試みます。鍵となるのは、出羽三山湯殿山(ゆどのさん)の大日如来信仰との関係です。前九年の役に従軍した横山党や鎌倉氏一族が信仰を持ち帰り、この地に根付かせたのではないか…。
 最後に訪れた「龍見寺大日堂」の大日如来像(東京都重要文化財)は、直接拝観することはできませんでしたが、端正なお顔は写真からでも何かを語りかけてくるようでした。帰りのバス停の近くにも大日如来と思われる智拳印(ちけんいん)を結んだ古い石仏があり、印象的でした。
(文と写真:森 正隆)


湯殿川親水公園  龍見寺大日堂

2023.05.30 14:59 | 固定リンク | 未分類