他のまちのフットパスをみてみよう町田・野津田の里山にある「浮輪寮」と野津田公園フットパス
2025.05.10
[講師:みどりのゆび 田邊博仁]
5月10日(土) 天気:小雨・曇 参加者:17名
本日のFP(フットパス)の目玉は、「浮輪寮」です。
「野津田車庫」から、野津田の里山の小径を登ります。途中にある「浮輪寮」へのいくつかの案内板は手作りで、「ゆっくり~浮輪寮」と書かれ、浮輪寮のご主人の暖かい思いやりが伝わってきます。丘(104m)の上の「農村伝道神学校」に出て、そのキャンパスに入ると、大きなスズカケの巨木の右側に数寄屋造りの浮輪寮が見えてきました。

「ゆっくり~浮輪寮」の小径

浮輪寮と水鏡の池
「浮輪寮」の名は、1954(昭和31)年の青函連絡船洞爺丸事故で、日本人の若者に自分の救命胴衣を与えて亡くなった農村伝道神学校の創立者、カナダ人宣教師アルフレッドラッセル・ストーン牧師にちなんでいます。
今日は「浮輪寮」内で、建築家丸谷博男先生から、ビデオを使って、浮輪寮再生にまつわるお話を伺いました。素敵なトークとまさかのピアノ演奏にビックリ、そしてご自慢の体に優しい手作りの「ホワイトカレー」をいただきました。廊下越しに解放された窓からの庭、雨に濡れた森、水が張った池も素敵でした。

数寄屋造りの天井と廊下と外の緑

建築家丸谷博男氏
「浮輪寮」は2022年に再生され、里山の環境を学ぶ講座、古典落語、華道、茶道、上方舞、雅楽、音楽ライブ、朗読、ワークショップなど様々な目的に活用されています。
「浮輪寮」を後に、午後からは野津田の里山を歩きます。FPを始めた頃(約15年前)、このようなマップを作って楽しんで歩いていました。久しぶりに、作ってみました。

野津田の里山歩きフットパスマップ
このマップに従い、①野津田車庫から~③浮輪寮~⑤小野路一里塚~⑥野津田公園~⑨国内最大級12mの鎌倉古道発掘現場~⑩森のレストラン「俊宣茶房」をぐるり~と回るFPのご案内をしました。
野津田の里山の変遷(明治から昭和、平成、令和)を調べてみると、農村伝道神学校が野津田の広大な山林を購入後(1978(昭和33)年)から、各種施設ができています。
神学校の丘から歩き始めると、「都立町田の丘学園」、「都立野津田高校」と続き、さらに歩くと「きこえの学校ライシャワー学園」(「聾話学校」から2025/4 学校名変更)、「まちだ丘の上病院」(名誉院長が鎌田實氏。鎌田氏の「地域を支える医療」が病院の理念)と各種の施設・学校・病院が集まっています。

「ライシャワー学園」

「まちだ丘の上病院」
小野路へ向かう道を進むと、鎌倉時代からの古道が。江戸時代、家康の遺骨が久能山から日光東照宮に移された時(1617年)の御尊櫃御成道には、この時「小野路一里塚」が造られ、両脇にエノキの木が植えられました。その後、大山道として賑わいました。

小野路一里塚の案内板
野津田公園に入ります。敷地面積は約121,000坪(東京ドームの約34.8個分相当)と広大な公園です。1990年に陸上競技場として開園。2020年には、町田GIONスタジアムが町田ゼルビアのホームグラウンドとして、2022年には、ばら園がここに移設されました。

野津田GIONスタジアム
「湿性植物園」へ入ります。公園調整池内に、1919年開園。現在はスケートパーク計画が進行中。
また、野球場の近くには「国内最大級12m幅の鎌倉古道」の発掘現場がありますが、発掘後の道路遺構は埋め戻され、公園の下に保存されています。
公園の続きの森に囲まれ閑静なレストラン「俊宣茶房」(しゅんせんさぼう)をご案内しました。農村伝道神学校の創始者であるストーン牧師の晩年の住居を改修したお店のようです。


閑静な森の中のレストラン「俊宣茶房」(2014,12)
森の中の小径を歩いて、野津田公園の「上の原ススキ草地」へ出ました。ここから、「華厳坂の鎌倉古道」を経て「野津田車庫」へ戻り、解散しました。
*下記のGoogleフォトのアルバムに全体の写真を掲載しています。下記のURLにてご覧いただけます。
【みどりのゆびFP「町田・野津田の里山にある「浮輪寮」と野津田公園フットパス(2025/5/10)】
https://photos.app.goo.gl/LNMqsJLUmhJkdSwq5
(文と写真:田邊 博仁)
◆丸谷先生のお話から二つ、感想。
①朽ち果てているとも見られる木造建築を、伝統技法も生かしながらここまで再生されたことに感銘を受けました。特に、自然から学んだ室内環境の創出は素晴らしい。浮輪寮は周辺の木々のたたずまい(雨模様が一段と美しく)ともあいまって、独特のちからを見る者に感じさせますね。
②浮輪寮や農村伝導神学校の歴史を伺うと、戦争が終わった後しばらくの時代の「熱」を思い出しました。ぼく自身の小学校(井の頭の明星学園)の時代です。子どもごころにも、自由・溌剌の時代でした。今思えば、民主主義への期待に溢れていた時代と言うのが可能かも。
そして今回のフットパスを企画された田邊さんの精力的で周到な準備作業には感謝あるのみ。ありがとうございました。たくさんの素晴らしい写真にもお礼。(高見澤邦郎)
◆NPOみどりのゆびのまち歩き『町田・野津田の里山にある「浮輪寮」と野津田公園フットパス』で、浮輪寮を訪ねました。
農村伝道神学校の学生寮として使われていた建物を、丸谷博男氏の改修設計により、見事に蘇った交流施設。丸谷さんから浮輪寮の謂れから出来上がるまでのお話を聞かせていただきました。本物のあるいは本気のエネルギーを費やして作られた建物の、凄みのようなものを感じました。
(浅黄 美彦)
◆昨日はありがとうございました。
雨が池に水紋となり数寄屋造りの建物の中ゆるりとした灯り、丸谷先生の講演とピアノ演奏、まるで異次元の世界でした。雨の中もなかなか良いですね。素晴らしい一日でした。(櫻田美知子)
数寄屋造りの古民家を再生した「浮輪寮」をバックに。ご自慢の手作りの「水鏡」に雨水がたまり、映し出される

丸谷先生とみなさま
古民家を再生した浮輪寮を訪問野津田の里山を歩く
5月10日(土) 天気:小雨・曇 参加者:17名
本日のFP(フットパス)の目玉は、「浮輪寮」です。
「野津田車庫」から、野津田の里山の小径を登ります。途中にある「浮輪寮」へのいくつかの案内板は手作りで、「ゆっくり~浮輪寮」と書かれ、浮輪寮のご主人の暖かい思いやりが伝わってきます。丘(104m)の上の「農村伝道神学校」に出て、そのキャンパスに入ると、大きなスズカケの巨木の右側に数寄屋造りの浮輪寮が見えてきました。

「ゆっくり~浮輪寮」の小径

浮輪寮と水鏡の池
「浮輪寮」の名は、1954(昭和31)年の青函連絡船洞爺丸事故で、日本人の若者に自分の救命胴衣を与えて亡くなった農村伝道神学校の創立者、カナダ人宣教師アルフレッドラッセル・ストーン牧師にちなんでいます。
今日は「浮輪寮」内で、建築家丸谷博男先生から、ビデオを使って、浮輪寮再生にまつわるお話を伺いました。素敵なトークとまさかのピアノ演奏にビックリ、そしてご自慢の体に優しい手作りの「ホワイトカレー」をいただきました。廊下越しに解放された窓からの庭、雨に濡れた森、水が張った池も素敵でした。

数寄屋造りの天井と廊下と外の緑

建築家丸谷博男氏
「浮輪寮」は2022年に再生され、里山の環境を学ぶ講座、古典落語、華道、茶道、上方舞、雅楽、音楽ライブ、朗読、ワークショップなど様々な目的に活用されています。
「浮輪寮」を後に、午後からは野津田の里山を歩きます。FPを始めた頃(約15年前)、このようなマップを作って楽しんで歩いていました。久しぶりに、作ってみました。

野津田の里山歩きフットパスマップ
このマップに従い、①野津田車庫から~③浮輪寮~⑤小野路一里塚~⑥野津田公園~⑨国内最大級12mの鎌倉古道発掘現場~⑩森のレストラン「俊宣茶房」をぐるり~と回るFPのご案内をしました。
野津田の里山の変遷(明治から昭和、平成、令和)を調べてみると、農村伝道神学校が野津田の広大な山林を購入後(1978(昭和33)年)から、各種施設ができています。
神学校の丘から歩き始めると、「都立町田の丘学園」、「都立野津田高校」と続き、さらに歩くと「きこえの学校ライシャワー学園」(「聾話学校」から2025/4 学校名変更)、「まちだ丘の上病院」(名誉院長が鎌田實氏。鎌田氏の「地域を支える医療」が病院の理念)と各種の施設・学校・病院が集まっています。

「ライシャワー学園」

「まちだ丘の上病院」
小野路へ向かう道を進むと、鎌倉時代からの古道が。江戸時代、家康の遺骨が久能山から日光東照宮に移された時(1617年)の御尊櫃御成道には、この時「小野路一里塚」が造られ、両脇にエノキの木が植えられました。その後、大山道として賑わいました。

小野路一里塚の案内板
野津田公園に入ります。敷地面積は約121,000坪(東京ドームの約34.8個分相当)と広大な公園です。1990年に陸上競技場として開園。2020年には、町田GIONスタジアムが町田ゼルビアのホームグラウンドとして、2022年には、ばら園がここに移設されました。

野津田GIONスタジアム
「湿性植物園」へ入ります。公園調整池内に、1919年開園。現在はスケートパーク計画が進行中。
また、野球場の近くには「国内最大級12m幅の鎌倉古道」の発掘現場がありますが、発掘後の道路遺構は埋め戻され、公園の下に保存されています。
公園の続きの森に囲まれ閑静なレストラン「俊宣茶房」(しゅんせんさぼう)をご案内しました。農村伝道神学校の創始者であるストーン牧師の晩年の住居を改修したお店のようです。


閑静な森の中のレストラン「俊宣茶房」(2014,12)
森の中の小径を歩いて、野津田公園の「上の原ススキ草地」へ出ました。ここから、「華厳坂の鎌倉古道」を経て「野津田車庫」へ戻り、解散しました。
*下記のGoogleフォトのアルバムに全体の写真を掲載しています。下記のURLにてご覧いただけます。
【みどりのゆびFP「町田・野津田の里山にある「浮輪寮」と野津田公園フットパス(2025/5/10)】
https://photos.app.goo.gl/LNMqsJLUmhJkdSwq5
(文と写真:田邊 博仁)
浮輪寮を訪ねての感想
◆丸谷先生のお話から二つ、感想。
①朽ち果てているとも見られる木造建築を、伝統技法も生かしながらここまで再生されたことに感銘を受けました。特に、自然から学んだ室内環境の創出は素晴らしい。浮輪寮は周辺の木々のたたずまい(雨模様が一段と美しく)ともあいまって、独特のちからを見る者に感じさせますね。
②浮輪寮や農村伝導神学校の歴史を伺うと、戦争が終わった後しばらくの時代の「熱」を思い出しました。ぼく自身の小学校(井の頭の明星学園)の時代です。子どもごころにも、自由・溌剌の時代でした。今思えば、民主主義への期待に溢れていた時代と言うのが可能かも。
そして今回のフットパスを企画された田邊さんの精力的で周到な準備作業には感謝あるのみ。ありがとうございました。たくさんの素晴らしい写真にもお礼。(高見澤邦郎)
◆NPOみどりのゆびのまち歩き『町田・野津田の里山にある「浮輪寮」と野津田公園フットパス』で、浮輪寮を訪ねました。
農村伝道神学校の学生寮として使われていた建物を、丸谷博男氏の改修設計により、見事に蘇った交流施設。丸谷さんから浮輪寮の謂れから出来上がるまでのお話を聞かせていただきました。本物のあるいは本気のエネルギーを費やして作られた建物の、凄みのようなものを感じました。
(浅黄 美彦)
◆昨日はありがとうございました。
雨が池に水紋となり数寄屋造りの建物の中ゆるりとした灯り、丸谷先生の講演とピアノ演奏、まるで異次元の世界でした。雨の中もなかなか良いですね。素晴らしい一日でした。(櫻田美知子)
数寄屋造りの古民家を再生した「浮輪寮」をバックに。ご自慢の手作りの「水鏡」に雨水がたまり、映し出される

丸谷先生とみなさま
他のまちのフットパスをみてみよう あしかがフラワーパークと足利学校・鑁阿寺
2025.04.30
[講師:みどりのゆび 小林 道正]
4月30日(水) 天気:晴 参加者:11名

あしかがフラワーパーク遠景(写真:小林)
足利市は関東平野の北端、渡良瀬川の清流や緑豊かな山々に囲まれ、豊かな自然と歴史•文化が調和した街です。大藤で有名な「あしかがフラワーパーク」では四季折々の美しい花々が咲き誇り、日本最古の学校である「足利学校」や、室町幕府を開いた足利氏ゆかりの「鑁阿寺(ばんなじ)」など歴史的な史跡が数多く残っています。

JRあしかがフラワーパーク駅
足利市へのアクセスは自家用車が便利ですが、駐車場周辺がたいへんな渋滞になります。シーズン中には直通列車が東京、新宿、八王子、神奈川などから運行されることもあります。今回は新宿駅を起点として、往路はJR湘南新宿ラインとJR両毛線を、復路は東武伊勢崎線とJR湘南新宿ラインを利用しました。

あしかがフラワーパーク・大藤棚

あしかがフラワーパーク・白藤
房の長さは1.8mにもなるそうです。風に吹かれながら雅で甘い香りを漂わせていました。園内の歩道は身動きがとれないほどの混雑でしたが、色とりどりの藤の花に感動しました。

足利学校・外濠前
JR両毛線を一駅乗り、足利学校へ移動しました。この足利学校は「日本国最古の学校」として足利市民の「心の拠り所」となっています。創建は諸説ありますが、確かな事実としては1439年に関東管領上杉憲実が再興したと伝えられています。16世紀半ばにはフランシスコ•ザビエルによって「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。施設は孔子廟、学問所、書物(国宝)を保存する図書館などがあります。最近の話題はゲーム「刀剣乱舞」で有名になった「山姥切国広」という日本刀です。堀川国広が安土桃山時代にここ足利学校で鍛刀したと伝えられています。今年になって個人所蔵だったものを足利市が約3億円で購入しました。一般公開が楽しみです。

足利学校・孔子廟前
次は足利学校から徒歩で5分の鑁阿寺(ばんなじ)です。足利尊氏の父貞氏が建立したと伝わります。鎌倉時代に足利氏の館として築かれた真言宗大日派の本山です。本尊は大日如来で、本堂は国宝に指定され、市民から「大日様」と呼ばれ親しまれています。

鑁阿寺・仁王門前

鑁阿寺・本堂(国宝)前
最後に街の中心部を流れる渡良瀬川を渡って、東武伊勢崎線の足利市駅まで歩きました。老朽化した中橋を歩行者専用の橋として補強し保存するために、掛け替え工事をしています。森高千里の歌で有名な渡良瀬橋は川の上流方向にある隣の橋です。

渡良瀬川・中橋の架け替えの様子
(文:小林 道正写真:田邊 博仁)
新緑が目に眩しい4月30日、新宿の喧騒を後に、湘南新宿ラインに揺られること約2時間。多くの観光客と一緒に「あしかがフラワーパーク駅」に降り立つと、期待に胸が膨らみました。
フラワーパークの門をくぐると、 すぐに目に飛び込んできたのは、息をのむほどに美しい大藤の姿。樹齢百六十年を超えるというその巨木は、頭上いっぱいに紫色の花房を広げ、まるで 壮麗な滝が流れ落ちるようでした。1本の木からこれほどの 美しさが生まれるのかと、自然の雄大さに感動しました。
この奇跡は日本初の女性樹木医、塚本こなみ氏によってなされ、今こうして私たちの目を楽しませてくれているのです。
藤棚の下を歩けば、 頭上には紫・白など、色とりどりの花房が揺れ、甘い香りに包まれます。藤の花以外にも色鮮やかなツツジが波のように咲き誇っていました。
昼食後、歴史的な薫り漂う「足利学校」へと向かいました。いくつかの資料が展示され、日本の最初の学校がここに築かれたことを物語っています。特に心に残ったのは、当時の学生たちが真剣に学んでいた姿を想像した時でした。
最後、私たちは国宝である「鑁阿寺」に向かいました。ここも歴史的な重みのある建築美で、足利の地の歴史の深さを強く感じました。

大藤棚

つつじと藤棚
(文と写真:太田 義博)
満開の“大藤”を堪能しました
4月30日(水) 天気:晴 参加者:11名

あしかがフラワーパーク遠景(写真:小林)
足利市は関東平野の北端、渡良瀬川の清流や緑豊かな山々に囲まれ、豊かな自然と歴史•文化が調和した街です。大藤で有名な「あしかがフラワーパーク」では四季折々の美しい花々が咲き誇り、日本最古の学校である「足利学校」や、室町幕府を開いた足利氏ゆかりの「鑁阿寺(ばんなじ)」など歴史的な史跡が数多く残っています。

JRあしかがフラワーパーク駅
足利市へのアクセスは自家用車が便利ですが、駐車場周辺がたいへんな渋滞になります。シーズン中には直通列車が東京、新宿、八王子、神奈川などから運行されることもあります。今回は新宿駅を起点として、往路はJR湘南新宿ラインとJR両毛線を、復路は東武伊勢崎線とJR湘南新宿ラインを利用しました。

あしかがフラワーパーク・大藤棚

あしかがフラワーパーク・白藤
房の長さは1.8mにもなるそうです。風に吹かれながら雅で甘い香りを漂わせていました。園内の歩道は身動きがとれないほどの混雑でしたが、色とりどりの藤の花に感動しました。

足利学校・外濠前
JR両毛線を一駅乗り、足利学校へ移動しました。この足利学校は「日本国最古の学校」として足利市民の「心の拠り所」となっています。創建は諸説ありますが、確かな事実としては1439年に関東管領上杉憲実が再興したと伝えられています。16世紀半ばにはフランシスコ•ザビエルによって「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。施設は孔子廟、学問所、書物(国宝)を保存する図書館などがあります。最近の話題はゲーム「刀剣乱舞」で有名になった「山姥切国広」という日本刀です。堀川国広が安土桃山時代にここ足利学校で鍛刀したと伝えられています。今年になって個人所蔵だったものを足利市が約3億円で購入しました。一般公開が楽しみです。

足利学校・孔子廟前
次は足利学校から徒歩で5分の鑁阿寺(ばんなじ)です。足利尊氏の父貞氏が建立したと伝わります。鎌倉時代に足利氏の館として築かれた真言宗大日派の本山です。本尊は大日如来で、本堂は国宝に指定され、市民から「大日様」と呼ばれ親しまれています。

鑁阿寺・仁王門前

鑁阿寺・本堂(国宝)前
最後に街の中心部を流れる渡良瀬川を渡って、東武伊勢崎線の足利市駅まで歩きました。老朽化した中橋を歩行者専用の橋として補強し保存するために、掛け替え工事をしています。森高千里の歌で有名な渡良瀬橋は川の上流方向にある隣の橋です。

渡良瀬川・中橋の架け替えの様子
(文:小林 道正写真:田邊 博仁)
“大藤”の美しさ、雄大さに感動
新緑が目に眩しい4月30日、新宿の喧騒を後に、湘南新宿ラインに揺られること約2時間。多くの観光客と一緒に「あしかがフラワーパーク駅」に降り立つと、期待に胸が膨らみました。
フラワーパークの門をくぐると、 すぐに目に飛び込んできたのは、息をのむほどに美しい大藤の姿。樹齢百六十年を超えるというその巨木は、頭上いっぱいに紫色の花房を広げ、まるで 壮麗な滝が流れ落ちるようでした。1本の木からこれほどの 美しさが生まれるのかと、自然の雄大さに感動しました。
この奇跡は日本初の女性樹木医、塚本こなみ氏によってなされ、今こうして私たちの目を楽しませてくれているのです。
藤棚の下を歩けば、 頭上には紫・白など、色とりどりの花房が揺れ、甘い香りに包まれます。藤の花以外にも色鮮やかなツツジが波のように咲き誇っていました。
昼食後、歴史的な薫り漂う「足利学校」へと向かいました。いくつかの資料が展示され、日本の最初の学校がここに築かれたことを物語っています。特に心に残ったのは、当時の学生たちが真剣に学んでいた姿を想像した時でした。
最後、私たちは国宝である「鑁阿寺」に向かいました。ここも歴史的な重みのある建築美で、足利の地の歴史の深さを強く感じました。

大藤棚

つつじと藤棚
(文と写真:太田 義博)
【緑地管理報告 4/27(日)】
2025.04.28
4月27日(日)10:00~11:50 晴れ 参加者12名
3週連続のタケノコ掘りとなりましたが、今回で事実上終わりです。
20本程度掘れたものの、全体に細く痩せ気味で、シーズン末期の特徴を現しています。
穂先狩りが出来るほど、伸びていたのは2本だけでした。
タケノコは、ほぼ規則的に毎年豊凶を繰り返しているようです。
今年は特に少なく、祭り行事も中止となった分、来年は豊作と期待しましょう。
しかし、今日は晴天で午前中は気温も高くなく、快適な天候条件でした。
木々の緑は日々濃くなりつつあり、里山の生命力をいただく思いすらしました。
その後、有志7名は鶴川香山園に移動し、桜梅桃李で和やかに昼食会を楽しみました。
(記録 合田)
3週連続のタケノコ掘りとなりましたが、今回で事実上終わりです。
20本程度掘れたものの、全体に細く痩せ気味で、シーズン末期の特徴を現しています。
穂先狩りが出来るほど、伸びていたのは2本だけでした。
タケノコは、ほぼ規則的に毎年豊凶を繰り返しているようです。
今年は特に少なく、祭り行事も中止となった分、来年は豊作と期待しましょう。
しかし、今日は晴天で午前中は気温も高くなく、快適な天候条件でした。
木々の緑は日々濃くなりつつあり、里山の生命力をいただく思いすらしました。
その後、有志7名は鶴川香山園に移動し、桜梅桃李で和やかに昼食会を楽しみました。
(記録 合田)
フットパス専門家講座 東国(アヅマのくに)フットパス(その2)
2025.04.25
[ 講師:古街道研究家 宮田 太郎 ]
(縄文ロードと川尻遺跡編)
4月25日(金) 天気:晴 参加者:18名
テーマは、相模野の最奥部に位置する相模原市大島、川尻地区を「奥相模野」地域としてとらえ、そこに今も残る直線的な古街道が、実はおよそ数千年前の縄文時代に、多摩・町田と諏訪湖地方の高原地帯や八ヶ岳方面とを結びあった交流ルート=昨年黒曜石ロードだった?!――という壮大な歴史ロマンを胸に歩きました。
2千500年~6千年前の縄文時代に、長野県の高原地帯の山の民と、相模野・多摩丘陵・武蔵野の人々が、親戚のような交流を数千年も続けてきたなんて、現代ではなかなか想像できないことですが、このフットパスはそんなことを実感させてくれる小さな旅になったものと思います。
当日は暑さも予想されたため午後だけの開催とし、正午にJR橋本駅のミウィ前に集合。バスに乗って10数分ほどで下車した二本松の「八幡神社前」では、昭和40年の津久井湖ダム完成に先立って、昭和30年台後半にここへ移り住んだ約180世帯の集落(湖底に沈んだ荒川村などから神社や石仏をここに移した)であることを知りました。

八幡神社の石仏群
(写真:田邊)
その先は、旧津久井郡城山町と相模原市の境界線(古街道)に沿って段丘崖の森の中を下り、「古街道のゴールデンクロス」にあたるという地点を確認。

段丘崖の森の中を下る
その先では「津久井城跡」へと真っ直ぐに続く謎の古街道=縄文ロードをたどりました。

津久井城跡へ真っ直ぐに続く縄文ロード
オアシスのような大型スーパーで休憩後、「川尻中村遺跡」の跡地では、圧倒される量の出土物などを資料で確認。「新小倉橋」からの雄大な眺めを見たときは、相模川の川風が渡り、とても清清しい気持ちになりました。

長竹川尻線の上から、新小倉橋、城山と圏央道を見渡す


新小倉橋からの雄大な眺め相模川の小倉橋とリニア新幹線工事中の橋
橋を渡り対岸の「原東遺跡」を確認し、橋を戻って「川尻石器時代遺跡(国指定)」を探索。そこには石敷きの住居址が復元されており、また目前の「宝ヶ峰(津久井城跡)」の山頂には、冬至の太陽が沈むことも知りました。 これらの濃厚な縄文遺跡群は、まさに山脈を越えて黒曜石やヒスイ石を運んで来る八ヶ岳の縄文人たちが、往き帰りに休憩したり滞在していたベースキャンプではなかったかと想像させてくれます。

川尻石器時代遺跡の復元された石敷き住居址を観察
普段はあまり訪ねることもなく、観光地でもないこのエリアですが、まだまだ自然が豊富であり、遠い我々の祖先の逞しき暮らしが見えてくるようで、貴重な時間になったと思います。
( 文と写真:宮田 太郎)

新小倉橋より相模川の上流、神奈川県最古(昭和18年)の津久井発電所(写真:田邊)

国指定史跡川尻石器時代跡(写真:田邊)

川尻石器時代遺跡に参加者のみなさまと(写真:田邊)
土日が詰まっている私達にとってウイークデー開催のこの FP は願ってもなく、おかげで久しぶりに参加できました。それに数年前まで歩くのは体力維持が目的でしたが、最近は加えて歴史等の見聞が得られる行事に魅力を感じており、今回はまさにそういう企画でした。
川尻や小倉橋周辺は、以前、ゴルフや、宮ケ瀬ダムおよび丹沢の裏山などへ遊びに行くときに頻繁に通った所ですが、そこにこれほど大規模な遺跡群があることはまったく知りませんでした。
新小倉橋が開通した2004年以前は、相模川の向こう側へ行く場合、車は狭い(旧)小倉橋を対向車両がないことを確認して通行する、つまり交互通行のため時間がかかり、ここを通らなければ5~6㎞下流の高田橋まで迂回するしかなく、すごく不便な所だと感じていました。
その場所が、縄文時代には既に大集落があって多くの人が住んでいただろうこと、その後も黒曜石の運搬経路であった時代もあり、さらに相模の国や武蔵の国などと甲州方面を結ぶ主要な交通路の一つであっただろうこと等を知りました。黒曜石と聞き最初は何故かと思いましたが、刃物道具として使われた時代には重要な交易物だったのでしょうね。
現代のような通信手段・動力・機械等がなかった時代の人々は、どんな生活をしていたのだろうか?…住居や渡河手段等をどのようにして整備したのだろうか?…いろいろ想像するだけでロマンを感じます。
途中休憩した場所が、その遺跡群のある近くで、スーパーアルプスなどの店が入っているコピオ相模原インター店というモールでした。そのモールに立ち寄ったのも私達にとっては初めてでした。
宮田先生の詳細な資料と、広く深くとてもわかりやすいご説明で、大変面白く勉強になった一日でした。
(文:伊藤 英俊、民江)
奥相模の縄文大集落をフットパス
(縄文ロードと川尻遺跡編)
4月25日(金) 天気:晴 参加者:18名
テーマは、相模野の最奥部に位置する相模原市大島、川尻地区を「奥相模野」地域としてとらえ、そこに今も残る直線的な古街道が、実はおよそ数千年前の縄文時代に、多摩・町田と諏訪湖地方の高原地帯や八ヶ岳方面とを結びあった交流ルート=昨年黒曜石ロードだった?!――という壮大な歴史ロマンを胸に歩きました。
2千500年~6千年前の縄文時代に、長野県の高原地帯の山の民と、相模野・多摩丘陵・武蔵野の人々が、親戚のような交流を数千年も続けてきたなんて、現代ではなかなか想像できないことですが、このフットパスはそんなことを実感させてくれる小さな旅になったものと思います。
当日は暑さも予想されたため午後だけの開催とし、正午にJR橋本駅のミウィ前に集合。バスに乗って10数分ほどで下車した二本松の「八幡神社前」では、昭和40年の津久井湖ダム完成に先立って、昭和30年台後半にここへ移り住んだ約180世帯の集落(湖底に沈んだ荒川村などから神社や石仏をここに移した)であることを知りました。

八幡神社の石仏群
(写真:田邊)
その先は、旧津久井郡城山町と相模原市の境界線(古街道)に沿って段丘崖の森の中を下り、「古街道のゴールデンクロス」にあたるという地点を確認。

段丘崖の森の中を下る
その先では「津久井城跡」へと真っ直ぐに続く謎の古街道=縄文ロードをたどりました。

津久井城跡へ真っ直ぐに続く縄文ロード
オアシスのような大型スーパーで休憩後、「川尻中村遺跡」の跡地では、圧倒される量の出土物などを資料で確認。「新小倉橋」からの雄大な眺めを見たときは、相模川の川風が渡り、とても清清しい気持ちになりました。

長竹川尻線の上から、新小倉橋、城山と圏央道を見渡す


新小倉橋からの雄大な眺め相模川の小倉橋とリニア新幹線工事中の橋
橋を渡り対岸の「原東遺跡」を確認し、橋を戻って「川尻石器時代遺跡(国指定)」を探索。そこには石敷きの住居址が復元されており、また目前の「宝ヶ峰(津久井城跡)」の山頂には、冬至の太陽が沈むことも知りました。 これらの濃厚な縄文遺跡群は、まさに山脈を越えて黒曜石やヒスイ石を運んで来る八ヶ岳の縄文人たちが、往き帰りに休憩したり滞在していたベースキャンプではなかったかと想像させてくれます。

川尻石器時代遺跡の復元された石敷き住居址を観察
普段はあまり訪ねることもなく、観光地でもないこのエリアですが、まだまだ自然が豊富であり、遠い我々の祖先の逞しき暮らしが見えてくるようで、貴重な時間になったと思います。
( 文と写真:宮田 太郎)

新小倉橋より相模川の上流、神奈川県最古(昭和18年)の津久井発電所(写真:田邊)

国指定史跡川尻石器時代跡(写真:田邊)

川尻石器時代遺跡に参加者のみなさまと(写真:田邊)
アズマのくにフットパスに参加して
土日が詰まっている私達にとってウイークデー開催のこの FP は願ってもなく、おかげで久しぶりに参加できました。それに数年前まで歩くのは体力維持が目的でしたが、最近は加えて歴史等の見聞が得られる行事に魅力を感じており、今回はまさにそういう企画でした。
川尻や小倉橋周辺は、以前、ゴルフや、宮ケ瀬ダムおよび丹沢の裏山などへ遊びに行くときに頻繁に通った所ですが、そこにこれほど大規模な遺跡群があることはまったく知りませんでした。
新小倉橋が開通した2004年以前は、相模川の向こう側へ行く場合、車は狭い(旧)小倉橋を対向車両がないことを確認して通行する、つまり交互通行のため時間がかかり、ここを通らなければ5~6㎞下流の高田橋まで迂回するしかなく、すごく不便な所だと感じていました。
その場所が、縄文時代には既に大集落があって多くの人が住んでいただろうこと、その後も黒曜石の運搬経路であった時代もあり、さらに相模の国や武蔵の国などと甲州方面を結ぶ主要な交通路の一つであっただろうこと等を知りました。黒曜石と聞き最初は何故かと思いましたが、刃物道具として使われた時代には重要な交易物だったのでしょうね。
現代のような通信手段・動力・機械等がなかった時代の人々は、どんな生活をしていたのだろうか?…住居や渡河手段等をどのようにして整備したのだろうか?…いろいろ想像するだけでロマンを感じます。
途中休憩した場所が、その遺跡群のある近くで、スーパーアルプスなどの店が入っているコピオ相模原インター店というモールでした。そのモールに立ち寄ったのも私達にとっては初めてでした。
宮田先生の詳細な資料と、広く深くとてもわかりやすいご説明で、大変面白く勉強になった一日でした。
(文:伊藤 英俊、民江)
【緑地管理報告 4/20(日)】
2025.04.21
4月20日(日)10:00~11:30 くもり 参加者15名
20日は、本来はタケノコ祭りの日でしたが、天気予報では雨。
しかもタケノコが裏年で不作でもあり、タケノコ祭り(タケノコ汁)は中止になり、
タケノコを掘るだけになりました。
13日の生育調査では、5本しか掘れなかったのに、20日はなんと大小様々30本近く
収穫出来ました。昨年の肥料も効いたのでしょうか。
会員の方とご家族連れの初参加があり、楽しく賑やかな1日でした。
来週も穂先タケノコばかりでなくタケノコも掘れそうです。
昨年はずいぶん掘ったつもりですが、やはり新しい竹が何本も生えています。
成長した竹を伐採するのは一苦労です。
皆さんに穂先タケノコやタケノコのうちに収穫してもらえると、有難いです。
タケノコのあく抜きは、電子レンジで
10分の方法もあるようで、次はそれを試してみようと思います。
(記録 鈴木)
20日は、本来はタケノコ祭りの日でしたが、天気予報では雨。
しかもタケノコが裏年で不作でもあり、タケノコ祭り(タケノコ汁)は中止になり、
タケノコを掘るだけになりました。
13日の生育調査では、5本しか掘れなかったのに、20日はなんと大小様々30本近く
収穫出来ました。昨年の肥料も効いたのでしょうか。
会員の方とご家族連れの初参加があり、楽しく賑やかな1日でした。
来週も穂先タケノコばかりでなくタケノコも掘れそうです。
昨年はずいぶん掘ったつもりですが、やはり新しい竹が何本も生えています。
成長した竹を伐採するのは一苦労です。
皆さんに穂先タケノコやタケノコのうちに収穫してもらえると、有難いです。
タケノコのあく抜きは、電子レンジで
10分の方法もあるようで、次はそれを試してみようと思います。
(記録 鈴木)

2025.05.10 20:01
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